食卓のご飯は、作品だからさ…。
「え、納豆いる?」
夫にかけたわたしの声が随分、不満げなものになってしまった。
声のトーンといい、言い方といい、咄嗟に感じたデジャブ。
あ、母だ。かつて母がわたしへの言った言い方にそっくりだと気づいた。
実家で生活していた頃、晩御飯時、勝手に冷蔵庫から納豆を取り出して食べようとするわたしに、母は時折、その言葉と不満げな顔を投げかけたのだ。
実家の冷蔵庫には、納豆が常備されていた。安い・手軽・栄養価が高い、そんな3拍子揃った納豆はおかずとしても、間食としてもうってつけの一品。
それは、夫と二人暮らしの我が家でも同じだ。二人とも納豆が好きなので、大抵冷蔵庫に入れてある。
納豆が好きだから、食べる。
夫もきっと別にそれ以上の他意はないんだろう。わたしも実家にいたときにそうだったから、それは十分に分かっている。
ちなみにその日わたしが食卓並べたのは、かぼちゃとしめじのお味噌汁、鶏肉炒め、長芋のベーコンバター焼き、サラダ。
…おかず、充分にあるよね…?
納豆、いらなくない?と思ってしまい、
冒頭の「納豆、いる?」が出たわけだ。
また、ある日はさつまいもご飯を炊いた。
角切りにしたほこほこの甘いさつまいもと少し入れた白だしの風味が合わさって、我ながらなかなか美味しくできた。
「どう?」
としつこく聞くわたしに、
「美味しいよ」
と答えた夫は、半分ほどお茶碗が空になるとそそくさと席を立ち、卵を手に戻ってきた。まさか…と思ってみていると、割り入れた卵をお箸でちゃかちゃかと混ぜ、卵かけご飯にしたではないか…!
なんでやねん、味わえよ、さつまいもの風味を…!
「卵、いる?」
軽く目が三角になりかけながらそう聞くわたしに、
「卵かけご飯、美味しいやん…」
と小さく夫は答えた。
いや、卵かけご飯は美味しいよ。知ってる。
わたしも卵かけご飯大好きやもの。
そういうことじゃなくてさ…心の中でため息をつく。
たかがご飯。されどご飯。
毎日の食卓に出されるご飯は、さりとて特筆すべきことのない日常の一部であっても、出来上がりまでにたくさんの過程が存在する。
まず、献立を決めること。
冷蔵庫に眠る食材の賞味期限、栄養バランス、直近に食べたもの、品数、調理時間、旬の食材。考える要素はたくさんある。
そしてあれが安い、これが旬…等いろいろ悩みながら買い出しをし、より手早く仕上げるための手順を脳内で描きつつ、下ごしらえをし、料理する。
そうやって食卓に並べたご飯は、いろいろ考えた末の、一種の作品でもある。
言ってみれば、出来上がった作品に余計なものを足すな、混ぜるな!という気分なのだ。
もう完結しているものに(調味料をかけるなどの「味変」は認めるとしても)出来るかぎり、手を加えないでいただきたい。
食べる側に、決して他意はないのは分かっている。しかし、「足りなかった?」「これだけじゃ不満ってこと?」と少しばかりもやもやするのだ。
また、テレビを見ながらすいすい箸を進められると、いや、もっと味わってよ!とも思う。
一口ごとに目を見開いたリアクションやテレビのリポーター並みの詳細な感想までは求めない。けどさ、もうちょっと、なんかないの、と思ってしまう。
ついつい、
「いつもとちょっと違う食材入れてみたんだけど。」
「○○に入れた、隠し味は何でしょうか?!」
と目の前の料理のことを話題にしたり、
「今日の○○、どう?美味しい?」
と感想を求めたりしてしまう。
出来上がった作品には、どうであったか、ちゃんと反応して欲しい。
美味しそうに食べてくれたらそれだけでもうれしいけれど、出来れば言葉でも何らかのフィードバックが欲しい。
炒めるだけのおかずとか、お惣菜を買ってきてお味噌汁だけや1品のメインだけ作る、とかこれまで、働きながらスーパーのお惣菜を取り入れながら適当に作っていたときは、そんなことはあまり思っていなかった。
産休に入って専業主婦もどきになり、こうやって一汁三菜といわずともそれなりにちゃんと食卓にご飯を並べるようになって初めて感じたことだ。
料理のやりがいを感じられるかどうかは、どうも相手の反応が大きく左右するらしい。
「納豆、いる?」「(何かの調味料)いる?」
不満げな声でそう言ってきたこと、
「今日の○○はどう?○○、いつもより美味しいくない?」
とその日の献立の感想を過剰に求めてきたこと。
今ならその気持ち、すごくよくわかるよ、
お母さん…。
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