安心カレー
風呂を出て夜のキッチンに立った。週末まであと3日。女の一人暮らし、カレーでも作れば当分夕飯の心配はない。
ジャガイモをまな板の上に並べ、順に皮を剥いてゆく。ふと手が止まる。
明日、夕飯に誘われていた。
相手の男は昔の先輩。当時からずっと片想いをしている。
諦めて他の男と付き合ってみるも、別れるとまた会ってしまう。関係の変化を恐れて、曖昧な関係に甘んじている。いい加減、何とかしたい。
裸になったジャガイモの白肌を見つめる。
思えば子供の頃から、本当の気持ちを言えた試しがない。
小学生の時、クラスの女子の間で好きな男子の苗字で呼び合う遊びが流行った。私は好きな人の名前を言わなかったせいで、見当違いな男子の名前で呼ばれる羽目になった。それでも申し立てしなかったのは、アイドルや流行の歌に興味がなかった私が、処世術として、唯一女子グループに提供するため捻出した話題だったからかもしれない。
ジャガイモを切り終え、人参の皮を剥く。回転しながら乱切りされていく人参たち。
今まで付き合った人は、全て自分から切った。いずれも半年以内。なぜかわからないが相手に腹が立ち、我慢できなくなった。
おかげで女友達との恋バナには苦労しなかった。○○君が気になる、別れた。旬のネタは常にあり、話題には事欠かなかった。
玉ねぎの外皮を剥ぎ、串型に切る。全ての野菜を鍋に放りこむと、水を入れて火を付けた。
陽子と美月とは、以前通っていた料理教室で親しくなった。私を入れて三人のグループチャットがあり、今も近況や情報交換などで盛り上がる。二人は結婚しており、私の憧れだ。
彼女達なら、何か良いアドバイスをくれるかもしれない。
手を拭きスマホを開くと、チャットにメッセージを入力した。
私【突然ごめん。恋愛、どうしたらいいかわからなくなって】
すぐに二人の既読がついた。
陽子【例の人、うまくいかないの?】
私【うん。もう疲れて。別の人と付き合っても上手くいかないし】
陽子【新しい出逢いが欲しいなら、過去はスッパリ切らなきゃ。断捨離しないと、新しいものは入ってこないの。私だって10年付き合った男と別れて、今の旦那さんと知り合ったんだから】
美月【陽子の出会いはドラマみたいだったものね!】
陽子【美月こそ!こないだの記念日の写真!あ、ちょっと待って。旦那さんがお風呂入るみたい。こっそり覗くのが楽しみで❤】
美月【(笑)ごゆっくり。ゆみちゃん、やっぱり結婚はいいよ〜】
チャットは途切れた。
喉に渇きを覚え、冷蔵庫を開ける。「カレー用牛肉ブロック」の文字が目に飛び込んでくる。鼻息荒く肉のトレーを取り出した。
沸騰し始めた鍋に、刻んだ肉をぶち込んだ。続けて市販のカレー粉を投入する。箱に「甘口」と表記されている。
しまった、中辛のつもりだったのに。
味見をすると気持ち悪いほど甘かった。
チャットの着信音がした。
陽子【お風呂覗いてきた〜❤︎ねぇ今度、三人でドライブ行こうよ】
私はありったけの種類の香辛料を集め、まとめて鍋へと振り散らした。
翌日の夜、仕事が終わると夕飯の待ち合わせに向かった。
梅田駅で彼と落ち会い、商店街のカレー屋に入った。どうやら週末までカレー続きだ。
カウンター席だけの店には、お一人様らしきサラリーマンたちが黙々と食事をしている。背中から疲労が漂う。変わらぬ日々を鞭打って、明日も働き続けるのだろう。
彼とは仕事の近況以外、特別な話はしなかった。この場で刺激のあるものはカレーのスパイスだけで、ひどく滑稽に思えた。
食べ終えると駅に向かった。どこも寄るあてはない。ネオンが眩しかった。
路地を曲がるとホテル街が見えた。
一瞬、胸が高鳴る。
ホテルの玄関が近くなる。
手も繋がず、顔も合わさず。私たちは黙ったまま、ホテルの前を通り過ぎた。
百貨店の前まで来ると、彼がじゃあと手を挙げた。見送った背中は、サラリーマンのそれだった。
電車の中でスマホを開くとチャットが盛り上がっていた。ドライブの行き先で騒いでいるようだ。
陽子【ゆみちゃん!ゆみちゃんは行きたいところ、ある?】
行きたいところ、か。
行きたいところには、行けなかった。
チャットを閉じ、グループの退出ボタンを押した。
家に帰ると部屋中カレーの匂いがした。鍋を開け、冷たいルーをスプーンで一口、口に運ぶ。
一夜越しの冷たいカレーは、低刺激でもコクがあり、今の私にちょうど良い。