大学二年生も終わる春休み、初めての海外旅行に出かけた。赤道直下の熱帯雨林、マレーシアのボルネオ島をめぐる学生だけのツアーだった。 現地の空港でガイドと合流し、他のメンバーが待つバスへと移動した。ガイドは背の低いマレーシア人男性で、通訳も兼ねる。私も含めて10名。全国の大学から男女が集まった。一年生もいれば、もうすぐ社会人という人もいる。 初日から3日間はびっちり予定が組まれ、4日目はフリー、5日目に帰国という行程だった。 バスは街を外れ、熱帯雨林の中を走っていた。樹々の
風呂を出て夜のキッチンに立った。週末まであと3日。女の一人暮らし、カレーでも作れば当分夕飯の心配はない。 ジャガイモをまな板の上に並べ、順に皮を剥いてゆく。ふと手が止まる。 明日、夕飯に誘われていた。 相手の男は昔の先輩。当時からずっと片想いをしている。 諦めて他の男と付き合ってみるも、別れるとまた会ってしまう。関係の変化を恐れて、曖昧な関係に甘んじている。いい加減、何とかしたい。 裸になったジャガイモの白肌を見つめる。 思えば子供の頃から、本当の気持ちを言えた試しがな
スーパーの野菜コーナーで「無農薬栽培」の表示を見つけるたび、ここは都会なんだと気付く。 二年前、私は長野県の農園に勤めていて、無農薬栽培が当たり前の環境にいた。 桜の花が咲いた頃、友人のKちゃんが東京から長野に遊びに来ることになった。うちの農園にも来ると言う。せっかくだから長野の食を満喫してほしい。こんな感じでどうだろう。 11時11分、新幹線で到着するKちゃんを佐久平駅まで迎えに行く。駅まで車で30分。帰ったらちょうど昼食の時間だ。 お友達の農家が育てた無農薬栽培のお米
雪と耕太は同じ幼稚園に通う同級生でした。家が近いこともあり、ふたりは一番の仲良しでした。 雪の家の庭には小さな畑がありました。雪のお父さんが作ってくれたものです。雪は耕太と一緒に、ミニトマトの苗を植えました。 苗はまだ葉と茎だけなのに、ちゃんとトマトの匂いがしました。 苗は少しずつ大きくなりました。 大きくなる瞬間を見ようと、雪と耕太は毎日、幼稚園が終わると畑に行きました。けれどどんなに急いで帰っても、苗は必ず、前の日より少しだけ成長しています。大きくなる瞬間は、なかなか
山間の病院に赴任して、2年が過ぎようとしていた。人手不足で多忙を極め、生活は疲弊していた。頼れる近しい知人もなく、体力的にも精神的にも限界を感じていた。 夜勤が終わり、私はひとり溜息をついた。鞄から御守りを取り出す。 一人暮らしを始める時に、母が持たせてくれたものだ。御守り袋は手作りで、私の家系の女性が代々受け継いできたらしい。中には布の切れ端が入っていると聞いていた。 この辺り一帯には天女の伝説があった。昔、天から舞い降りた天女が、人々に酒造りや機織りを教えた。しかし役
長野県に住んでいた頃、農家のMさんという男性から声がかかり、田植えのお手伝いをすることになった。Mさんは60代の後半で、お米から野菜から何でも作る大ベテランの農家さんだ。 通常、Mさんのところの田植えは機械で行うが、今回私たちがお手伝いをする田んぼだけは、あえて長年、手で植えている。毎年、東京の大学から学生たちも参加するそうで、若い人に田植えを肌で感じてもらうための試みのようだった。 朝、田んぼに集合すると、二十人近い人が集まっていた。近所の見知った人も何人かいるが、半分
最近、統計学の勉強をしている。 統計学の用語で「外れ値」というのがある。 あるデータの集団の中で、その値だけグループから突出している。集団内の一般的な数値より大きすぎたり小さすぎたりするため、一見、はみ出しているように見える。 例えば、女子生徒の平均身長が150センチ代であるクラスに、ひとりだけ180センチの生徒がいるような場合。この180センチという値は外れ値になる。 「はい」か「いいえ」で答える質問に対して、別の回答をした場合も、外れ値扱いになる。 以前、上司から「
婚活会場として指定された貸会議室に着くと、私は辺りを見回した。受付に人はなく、扉を押して中に入った。 薄暗い灯が室内を照らし、壁に一人の人影を映し出している。今日の婚活相手だ。外見で判断しないための配慮だろうか、男は背の高いパーティションとブラインドで囲まれた中にいて、こちらからは姿は見えない。他には誰もいなかった。 今日ここに来たのは母に言われたからだ。物心ついた頃に両親が離婚し、私自身は結婚に全く興味がない。 両親の離婚後、父とは会っていない。抱っこされた時の大きな掌と、
アパートの一室。8畳ほどの薄暗い部屋で、私は初対面の小柄な男と向き合っていた。二十代から四十代くらいか。男の手元には道具箱のようなものが見えた。 大丈夫、外はまだ明るい。 男が口を開いた。 「どのようなご相談ですか」 私は背筋を伸ばした。 「忘れたい人がいます」 男は頷いた。悪い人には見えない。私は続けた。 「彼女は友人でした。もう会うことはありません。でも、未だに嫌な気分になります」 「嫌な気分とは?」 咄嗟に言葉が浮かんだ。 「あいつさえいなければ」 お腹に力が入るのを感
洋平は作業用手袋を外して畑の畦に腰を下ろした。手袋を地面に置き、仰向けになる。目を閉じて息を吸い込む。草の匂いがする。標高900mの高原の空気が肺を満たすのを感じる。 三ヶ月前、七年付き合った婚約者と破局した。任期付き研究員という洋平の仕事が相手の両親は不安だった。あっさり別れを告げられた。 全てを手放し農業アルバイトに応募した。引越してきたのが二ヶ月前。 誰かが草を踏む音がした。洋平は目を開けて音の方を見た。同僚のゲンさんだ。自称六十二歳。自社の譲渡と二度の離婚を経て、五
お金はエネルギーであるという話を聞いた。若いお母さんが夕飯の材料をスーパーで買うとき、お金は家族への愛情のエネルギーを帯びる。色で言うと優しいピンクだろうか。習い事を始めるとき、目的が友達作りであれば、お月謝のエネルギーは楽しい黄色かもしれないし、ライバルに勝つためであれば、その色は真っ赤に燃えているかもしれない。 かつて恋した人との食事では、お金は何色をしているだろうか。 彼は昔の職場の同期だった。親友、相棒、腐れ縁。どの言葉が妥当か分からないが、恋人だったことは一度もな
林間コースの道は一度途切れ、目の前に県道が見えてきた。車の往来を確認して、車道を横断する。 山中へと続く遊歩道が再び現れた。急な下り階段が続いている。大阪の中心部から電車で約一時間、手軽なハイキングスポットとして知られる箕面山だが、一部の道は急峻だった。屈んで登山靴の紐を結びなおす。路傍の小さな祠が目に入る。立ち上がって近寄った。 大きさは五十センチ四方くらいだろうか。四本の木柱にトタンの屋根を乗せた、小屋のような造りだ。中には大小の石像が置かれている。燭台には線香が燃え