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「心はどこへ消えた?」
村上春樹の「ねじまき鳥」を読みつつ、並行して読んでいる。
「心はどこへ消えた?」東畑開人
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163914305
週刊文春で連載されていたものに序文を足して、本になったものだ。毎回思うけれど、東畑先生は文章がとてもうまくて、重い話も難しい話も、するすると読めるし、軽妙でリズムもあるのでスッと入ってくる。
個々のエッセイもとても面白く、ついクスりと笑いつつも、しみじみと考えるようなものだ。
「YouTube, 安全カプセル」の章で、『私が「かもしれない」って言っている時は違うの!』というカウンセリングの中での話は爆笑した。これものすごく気持ちわかります(笑)相手を真っ向から否定せずに、でも違うんだよな、と思う時、私も使う。本当は違う!と告げるまでに、きっとあの手この手で違うと告げてるんだけど、全く伝わらないやつ。
私もカウンセリングでブチ切れた時に、違うとか否定を示す言葉や態度がささやかすぎるというか、遠回しすぎて分からない、、とこぼされた事がある。(私的には3ヶ月ずっとあの手この手で伝えてたつもりだった・笑)
専門家が言うからにはそう言う側面もあるかもしれないけど、違うんだよな、と思うと無碍に「違います」と言いにくかった。今ははっきり「全然違います」と言えるけど。
全然前に進まないな、カウンセリング、ほんとやる意味あるのか、としばしば思うけれど「全然違います」と言えるだけ、私も変わったのだろう。
そして専門家であっても私の思っていることは推測でしかなく、わかるのは私だけ、「あなたはこう思ってますね」「はい!」みたいな超能力的奇跡は起こりません、と言う当たり前のことを知る。すなわち、預言者みたいにビタっと言い当てて、「こうすればいいですよ!」なんてものは、他者から与えられるものではないってことだろうか。結局自分できちんと自分の意思をわかるように伝えて、泥まみれで転びまくりながら、どうするのが良いか、自分で見つけるしかないんだよな、と。そんなことをしみじみと再確認した話だった。
その他だと、個人的にはやはり序文と「補欠の品格」「補欠の人格」「受験の神様」が結構好きだ。また違う時に開くと別の章が気になるかもしれない。
序文を読んでから、また個々のエッセイを読むと感じ方も少し変わる。相変わらず軽妙な語り口だけれど、それくらいのインパクトがある序文だ。なんとなく社会学っぽくもあるジャンルを超えた心の話。
時にあははと笑いつつ、しみじみと自分の経験や思い出に思いを馳せる、読むとスッと肩の力も抜ける、そんな本でした。
ああ「治療文化の考古学」の岸政彦先生と、東畑先生の対談読みたいな、と。この本高いんだよ。図書館は入れてくれないし。立ち読みするにはものすごく長かった。(一度手にとった)このお二人のマリアージュはきっと面白いに違いない。
https://www.kongoshuppan.co.jp/smp/book/b587849.html