今週の読書 9/22「疾風怒濤精神分析入門」
引き続き、2回目の「疾風怒濤精神分析入門」。
まだ第6章を読んでいる。ファンタスム。
対象αを手掛かりにした欲望の形式をファンタスム(幻想)と言います。
対象αは、<もの>体験の残滓だ。対象αを追いかけると、失われた<もの>に至ることができるという。
ファンタスムとは欲望を成り立たせるための主体と対象αの結びつき
主体は、私たち自身だろうか。私自身と<もの>との繋がり。ここから満足へと繋がっていく。よく分からない。主体と<もの>の結びつきができるだけで満足が得られるのか。満足を得る手掛かりにはなりそうだが、満足そのものを得られないんじゃないか?対象αは<もの>そのものではないが、残滓である対象αの享楽を得ることで、満足することができる、ということか。
ファンタスムは、①未来への希望(<もの>の再発見の欲望)を生み出すとともに、②現在の満足(対象αの享楽)をも生み出すと言えるでしょう。
ちょっと分かりけれど、例が出てくるので実際わかりやすい。
ここまで来て、自分の生きづらさの原因は、いまのファンタスムかもしれない、と思う。それはどんなものなのか。そして、ファンタスムの再構築が必要だと感じる。それには自分のファンタスムと向き合うことが必要で、対象αが何なのか知りたいと思う。それはどうやるのか。
重要になるのは、対象αと、<理想>の癒着を引き剥がすことです。
すなわち、
そうした<理想>を作り出すことで、自分は何がしたかったのか
を知ることだと。それに気づくことが、再構築の一歩だと思う。
終章「すべてうまくはいかなくてもー分析の終結について」にやっと至る。
ここまで読んで来て、精神分析の目的は、今の満足していない生き方を、根本的に変えることだと理解した。それは自分の求めるものに等しいと思う。
では何を持ってゴールとするか。ここで出てくるのが「特異性」だ。「特異性」とはなにか。特異性に一般的な定義はないという。それは各個人によって異なるものだから。自分なりの理解として、「他者」に影響されない自分だけの望むもの、だ。究極的に「他者」からの解放だろうか。これは終わりの見えないゴールに思える。「他者」なくしては生きていけない。しかし、そこからの解放なくしては、特異的なものは手に入らない。バランスだとは思うが、長い長い道のりであることは確かそうだ。ゴールをするということではなく、特異性を基に、ただ新しい生き方に踏み出す、ということにこそ、意義があるのかもしれない。
これがまだ入門の入門。理解もそうはできてない。先は長いけれど、ラカンは自分の助けになるかもしれない。
きっとあとあと読んだら恥ずかしくて目も当てられないかもしれない。でもそうなることが良いことだと思う。はじめから全て理解することなど無理なのだから。スタートとしてこの本に出会えてよかったと思う。
次は「人はみな妄想する」を読む予定。