クラッシャーを放っておくことが一番の損失である
教員間のいじめが問題視されている。
こうした明らかに良心の欠如した人が跳梁跋扈している現実はどうにかならないものかと、いつも思い悩んでいる。
思いやり、同情、良心などの高等感情の欠如した人のことを精神医学用語で情性欠如者(ゲミュートローゼ)というらしい。
本質としては最近ときたま話題となっている「サイコパス」や「サディズム」、サイコパスの他に「ナルシシズム」「マキャベリズム」を含む「ダーク・トライアド」と似通ったものがある。
いじめは子どもだけの問題ではない。
一般企業などで働いた経験のある人ならわかると思うが、大人の世界でも全く珍しいことではない。
むしろ自分の身は自分で守らなければいけない分、大人の世界の方がタチが悪いと言えるだろう。
社会には「管理」という名目で人を精神的に追い込む人間がいる。
こうした性格を持つ、他人を潰すことを良しとする人たちのことをクラッシャーとも呼ぶ。
社会にとってはこういう人を追い込む人間が一番の害悪だと考える。
もちろん多少のプレッシャーは構わないだろう。
世の中には確かに発破をかけることで成長する人間もそう少なくはない。
だがクラッシャーたちには人が本気で嫌がっている、気に病んでいるということが理解できない。
思いやり、同情、良心が欠如しているためだ。
組織にとっては精神的な病に追い込んで辞めさせれば一見損失が少なくなるように見える。
しかしそれは大きな誤りで、より大きなスケールで、長い目で見ると、病気になった労働者が本来稼ぐはずだった分の生産力が落ちる上に、さらに彼らに医療的なケアをしなければならない分社会全体で見れば大きなマイナスになる。
これら医療・福祉のケアはみな我々の税金から賄われる。
自分たち組織の負担にならなければどうなっても良いという考えなのかもしれないが、結局巡り巡ってツケが回ってくることになる。
つまり、彼らは自分で自分たちの首を絞めているのだ。
しかもこうしたクラッシャーは何度も同じ過ちを繰り返す。犠牲者を増やしていく。
ゆえに長い目で見れば鬱になった人よりもクラッシャーの方が社会の負担を増やしているのである。
生産性、という言葉がある。
政治家がこの言葉を使うときは専ら金銭的な利益のことを指すことが多い。
当然だ。国家の運営は金銭によってなされているのだから。
だが、大金を稼いでいるが多くの人を傷つけている人、お金こそ稼いでいないもののクリエイティブでいろいろな人に幸せを振りまいている人、広い目で見てどちらが「生産性」があると思うだろうか?
これはお金を回すことが目的なのか、国民の幸せを願うことが目的なのか、という視点になるだろう。
話が脱線してしまった。
サイコパスの特性に「現実的・長期的な目標の欠如」がある。
そんな目先のことしか見えない彼らに期待するのがそもそも間違っているのかもしれない。
彼らから深手を負わないためにできることはただ一つ、逃げることだけだろう。
世の中には他人を蹴落とし、利用し、不幸に落とし込むことに快感を覚える人間(と呼んでも良いのか、いわゆる人でなしと呼ばれる人たち)も一定数存在する。
そんな人間の愚かさを、浅ましさを、底意地の悪さをAIは見逃さないだろう。
AIに殺されたくなければ、今すぐ悔い改めるべきだ。
どうか、手遅れにならないうちに。