2021/05/17 公衆衛生か社会正義か
今回のワクチン接種問題(いわゆる"優先接種")について思うところを。
(絵に意味はありません、なんだか良さそうなものを選びました)
まず、医療者を中心に「とりあえず打てる人に打ちましょう」という考え方が広まっています。
極めて合理的で、非の打ち所がない主張です。
「3000人分打てる量があるから、とにかく絶対に3000人分打とう」という専門家としての矜持を感じます。
打った人が誰、とかは関係ないんですね、別に首長であろうが、私企業の職員であろうが、医療従事者であろうが、それは問題ではなくて、国民全体の命を守ることが最優先、という強い意志を感じます。
(これは、公衆衛生的ですね!)
一方で、いわゆる"優先接種"についてマスコミを中心に問題としています。
これには2つの問題があると私は考えていて、1つはプロセスの不透明性、そしてもう1つは合理性追求による個人の感情の無視です。
プロセスの不透明性については、専門的には『手続の透明性の確保』ができていない、というのでしょうか。
すなわち、行政手続においては意思決定の手続が透明であることに重きを置かれてしかるべきであるはずなのに、時間がないから仕方がない、ということを理由に透明性を確保しないことに合理性があるか、ということです。
(また、これが許されるのであれば、医療従事者のICも「時間がなかったからできませんでした」を理由として広義には許されることになります。)
他の多くの方々も指摘されていましたが、「キャンセルが出た場合には、ワクチン接種業務に支障がでないために、以下の者に接種する」というルールを作っておけば良かったのに、と思います。
ルールさえあれば、あとから振り返ったときに、『ワクチンを余らせないためにキャンセル待ちのルールを作ることの是非』『"そのルール"の正しさ』という点で議論することができるので、非常に有用だと考えます。
また、合理性の追求による個人の感情の無視は、『公衆衛生的には正しいのだろうが、公平性を感じられない(首長はずるい!)』という個人的な感情によるものです。
「個人的なずるい、という感情なのであれば、無視しても良いのでは?」と思われるかもしれませんが、「ずるい」という感情は不公平感なので、不公平を正す側の行政自ら不公平を生み出すとは何事だ!という批判はあっておかしくないと思いますし、個人的な感情だから無視してもいいという問題でもないと思います。
(こちら側の批判されている方々は公衆衛生的価値観はさておき、社会正義という価値観を重視しているのだと感じます)
しかしながら今の状況は、「首長がキャンセル分を打っていいのか」という、感情論なのか、倫理なのか、ルールがなかったことの批判なのか、ルールに問題があることへの批判なのか、全く意味不明なので、そもそも議論する価値がない批判だと私は感じています。
注)今回は専門外の分野でもあるので、言葉遣いや言葉の定義について、下山憲治先生の『科学性・透明性原則と行政組織構造に関する法的分析』を参考にしましたが、正しい言葉遣いになっているか、法律の専門家の方のご意見も伺いたいです。(本分の中身も含めて)