最近読んだアレやコレ(2024.11.16)
最近は『ゼルダの伝説 知恵のかりもの』で溺死魔法を使って、魔物という魔物を溺れさせるなどして遊んでいたのですが、どうにも最後までクリアする気がわかず、気づけば『ゼルダの伝説 ティアーズ・オブ・ザ・キングダム』をいちから遊び直していました。哺乳類を見かけては射殺して屍肉を拾い、魔物を見かけては射殺して肉片を拾いを繰り返すだけでも、なんだか異常におもしろしく、本当にいいゲームだなと思います。『ブレス・オブ・ザ・ワイルド』はタイトルの名の下に、世界が足並み揃えてビシっと姿勢を正すような強靭さがありましたが、本作は思いつく限りのおもしろさを隅から隅まで目いっぱい詰め込んだような、未整理の幸福感があります。いい意味で無節操で、ただひたすらにはちゃめちゃに楽しい。
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怪傑レディ・フラヌール/西尾維新
シリーズの中心点が次世代の彼ら彼女らが立つ場所であることは言うまでもなく……しかし彼ら彼女らが見つめる先が、かつての〈夢とロマン〉であることも、疑うべくもないでしょう。中心点からずれたその座標は、憧憬と羨望をこめて見上げる位置であったり、劣化と汚損をみて見下げる位置であったりしたでしょう。ブレつつも視線の先に在る「本物」は疑いようがなく、だからこそ模すことも、偽ることもできたはずでした。ノイズだけで紙面を埋め尽そうとも、小説であることができたはずでした。……ゆえに、本作において、ついに成された「実は本物なんてなかったのだ」という自白は、あまりに重く、迫力を帯びています。それは、20年間、嘘が隠し続けてきたお宝なんてものはなかったのだという、全身全霊の「冗談」です。確かに伏線はありました。欠けた言葉はそれ自体を暗号として読み解け、解読できずとも欠けたままに私事を語りえ、書物も文字も、何も持たずともそれだけを用いて事足りる。それならば、もうおとぎばなしなんて騙るまでもなく、戯言は戯言のままで意味を持つ。〈夢とロマン〉を読み続けた人間として、西尾維新の読者として、「そんなものはもうどうだっていい」「字面と響きに意味はない」という断言は、あまりに晴れやかで、少し寂しい。散歩は、ひとりだけで歩くものであり、家族と共に歩くもの。つまり、「並んで歩く」必要はもうなくなった、ということですから。
世界はゴ冗談/筒井康隆
パラフィクション。風刺。言葉遊び。収録作のいずれもが、建てつけられたコンセプトが赤裸々なまでに明確で、その揺らぎのなさはストーリーすらも放棄させるほどに苛烈なものです。芯が定まっている。出題がされている。開始時点で目指すべきビジョンがくっきり見えている。しかし、いざ、それを小説として展開した時の、このつかみどころのなさは一体なんなのでしょうか。機械のように明瞭であったはずの構造が、語るほどにするするとほどけ、輪郭を作ることなく、水にインクを落としたように消えてゆくのです。読書体験として、これほどに「煙にまかれる」ものはそうそうなく、しかし、騙されたかといえばそうでもなく。確かに、今、語られたものがここにある。目の前にある。「こういう話だったのか」という納得がある。けれども、その事実を掴む言葉は、読む体験を通してバラバラに散らされてしまっており、うまく組むことができない。全ては計算づくのようにも思えますし、もうそういう細かいことがどうでもよくなっているだけのようにも思えます。筒井康隆が発揮する小説の自由さに、ただ私の速度が追い付けていないだけのようにも思えます。いや、これを自由ととらえてしまうことすら、自分の貧しさの証明なのかもしれません。そうして賢しらに自覚に努めることすら、恥ずかしく思える、あまりに雄大な「当たり前」を見せつけられました。超おもしろかった。80歳、90歳になったら、また読み返したい。
こそあどの森のひみつの場所/岡田淳
〈こそあどの森〉という児童文学の好きなところは、誰かと言葉を交わす時間の楽しさを説きながらも、それ以上に、ひとりきりで過ごすことの豊かさを描き続けていたところです。しかしストーリーものである本編はどうしてもキャラクター同士の掛け合いが必要となるわけで……。ゆえに、本編終了後、短編集という形で登場人物たちのひとりきりの姿を描いてくれた前作・今作は、ファンとしてとてもすばらしいプレゼントでした。実のところ、ひとりであろうと、誰かといようと変わりはないのです。自分というものはどこまでも世界の片隅の「ひみつの場所」に居るひとりきりであり、その内側には、外に広がる世界を感じ、観て、考える、黙々とした「ないしょの時間」だけが流れている。誰かと食卓を囲み、おしゃべりしたとしても、それは自然の中にひとり佇み、感じ、観て、考えているのと同じこと。『ムンジャクンジュは毛虫じゃない』の頃から変わらず、大人も、子供も、自分と世界の結びつき方を、他者と他者の関わり方を参照し、孤独に紐解き続けている。そしてそれはかなしいことではなく、こんなにもすばらしく、おもしろく、楽しさに溢れているんだと、やわらかに微笑んでいる。スキッパーは、私にとっての憧れの先生です。そして、こうして本の感想文を書くたびに、まだ彼の孤独には追いつけないと、仰ぐことになるのです。
月館の殺人(上・下)/綾辻行人、佐々木倫子
昨年6月から続けていた〈館シリーズ〉+『霧越邸殺人事件』の再読を終えたので、久しぶりに読み返したのですが……いやあ、おもしろい。本当におもしろい。上下分冊することで生まれた編集の妙は、こしらえられた趣向の数々を引き立て、ある種のセルフパロディめいたカタルシスを2度に渡り与えてくれます。またそれが、シリーズファンへの単なるサービスに留まらず、「シリーズものの推理小説」という構造にがっつりメスを入れた、まったく新しいチャレンジとして企画されているのだからたまりません。『鉄道館の殺人』ならぬ、『月館(つきだて)の殺人』というタイトルの、ああ、なんと洒落てかっこいいこと……その茶目っ気のキュートなこと……。また、ミステリ畑の私は、どうしても綾辻作品の文脈から本作を読んでしまうのですが、それでいてもなお、佐々木漫画の妖しいまでの愛らしさには飲み込まれてしまいます。シリーズでも屈指の死人の数を誇り、登場人物は身勝手で幼稚で暴力的な人間ばかり。それなのに、目の前に広がる光景は、こんなにも愛らしく、ほほえましく、誰も彼も皆、よろめくほどの愛嬌を備えています。畸形と淫猥を迸らせる綾辻作品世界をやわらかくいなし、自らの世界として支配・構築・完成させ切るその魔性。しかし核となるエッセンスは、全く損ねず、曇り一つ汚さないその技量。原作と漫画の噛み合いにおいて、ひとつの奇跡を見るほどの完成度。もっと読まれるべき傑作だと思います。