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最近読んだアレやコレ(2024.08.15)

 母が『宝石の国』をいたく気に入っており、帰省の度に、電子書籍で新刊を見せていたのですが、連載完結したことですし、これを機会に紙媒体でまとめてプレゼントするなどしました。そういえば、以前、父親に頼まれて誕生日に『ゴールデンカムイ』全巻を贈ったこともあります。老人相手にする贈り物としては、チョイスがあまりに大学生過ぎないかと思わなくもないのですが、本人たちは大変喜んでいるので、まあよろしかろうと思います。ちなみに、私の市川春子作品とのファーストコンタクトは、帰省時、父の所有する『量子回廊 年刊日本SF傑作選』をパラパラめくっていた際、ふと気になって読んでみた「日下兄妹」でした。前情報ゼロ、偶然も偶然の出会いだったこともあり、それはもう凄い衝撃でした。

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蚊トンボ白髭の冒険(上巻)/藤原伊織

 水道屋の倉沢達夫は、その日、頭の中に響く不思議な羽音を聞いた。それがすべてのきっかけだった。胡散臭い連中につけ狙われる、謎めいた隣人。突如、人間離れした力を発揮し始めた己の体。自分の頭に住み着き、「シラヒゲ」を名乗る不思議な同居人。たった3日間だけの、2人の冒険が始まる。

 裏社会に喧嘩を売った主人公が、その人間離れたした腕力によって、エスカレートする暴力沙汰の中心になってゆく……そんなおれの血は他人の血の藤原伊織版を想像しながら手にとったのですが、まったく違う内容でした。暴力、より広く言うなら「意思を伴って動く筋肉」が、この小説の中心にあることは間違いありません。しかし、重要なのはそれがもたらす破壊や事態ではなく、その前にあるもの……つまり、悪意も善意もひっくるめた意思と、その意思と筋肉の関わり合いの方を、強く見つめた小説であると思います。それは、もっともっと藤原伊織作品らしく、ナイーヴで、ピュアで、傷つきやすいものです。すなわち、人と関わらることなく黙々と仕事に励む、ひとりの老いた青年の内面こそがこのささやかな冒険の舞台となっています。走ることをやめてしまった青年と、その脳に住み着いた不思議な同居人。同居人の意思により、再び動き始めた筋肉は、紐づく青年の意思を再び揺り動かし、さらにはその奇妙な友人との対話を通じて、徐々に新たな機能を獲得してゆきます。さながらトレーニングのように、意思と筋肉の結びつきが、壊れては繋がってゆく痛さと快さ。「動く」という原初の刺激こそが、この冒険の本懐であり、お話の方もそれに取り残されぬよう、ダイナミックに展開を続けてゆくことになります。言い換えるなら、連載小説としての妙味が強く残った1作でもあると思います。


蚊トンボ白髭の冒険(下巻)/藤原伊織

 赤目の人殺し・カイバラの悪意は、暴力団すらも動かして、シラヒゲと達夫を追い詰めてゆく。その手がついに真紀に及んだ時、事態はしめくくりに向けて動き出した。そして、寿命を目の前に弱まってゆく、シラヒゲの力……。奇妙な縁と友情を手に挑む、蚊トンボと虫けらの恋と冒険、完結。

 燃え尽きる何かを日常生活の内ポケットに隠し持つ。あるいは、燃え尽きる青春を審美する。焼けつく程にピュアなまなざしで強く強くそれに憧れるまなざしと、それを真似るかっこつけの痛痒いまでのまっすぐさと……言葉にするのは難しいですが、「藤原伊織性」とでも呼ぶしかないそのエッセンス。それを生(き)の濃度のままジュースとして絞り落したのが短編集であるならば、最も長く尺がとられた本作は、ふんわり焼き上げたパンと言ってよいかもしれません。長尺は物語としての固有性・具体性に重きを持たせ、キャラクターやストーリーと言った「空気」をエッセンスに混ぜています。しかし、それは当然、俗悪な稀釈を意味しません。上巻、風味として香るだけに感じられ、ダイナミックに展開してゆくお話をひきたてていたスパイスは、下巻、読み重ねる毎に重く重く蓄積し、そのラストシーンにおいてついに致死量をオーバーします。最終段落にみなぎるその核心に……「ああ、これこそが、藤原伊織の小説なのだ」という、最早、諦めと悲しみすらも覚えてしまうほどの納得に……私はただ、俯くしかありませんでした。この小説はなんだったのかという問いに、〈恋と冒険〉であると迷いなく答えを返す強度の高さに対し、返す言葉は持ちえる者はいません。藤原伊織を読むこととは、そうやって打ちのめされることなのだと、私は思います。


病葉草紙/京極夏彦

 秀でず優れずうだつもあがらず、藤介は今日も長屋を見回るばかり。中でも気になる店子がひとり。箒のように痩せ細り、瓦落多に埋もれて暮らす、その男の名は久瀬棠庵。しかし知識だけは無駄に持っているこの男、長屋で起きた騒動をいつも虫の所為にして解決してしまうのだ。連作奇譚時代劇。

 「虫の所為にして丸くおさめる」は、言うまでもなく「化物の所為にして丸くおさめる」の同型であり、しかしその構造を組む全ての力学と部材が異なっているためか、小説として全く違うものとなっています。かの御行が人の心を知り尽くして嘘で呪いをかけたように、本草学者は、人の心がわからぬゆえ、嘘はつかずに診断をする。かのシリーズが根っこに強い「かなしみ」を湛えていたように、本作は、かなしくて、かなしくて、それでもどうしようもなく日々をあくせくやってゆく、仕方のない「おかしみ」を奥の奥に秘めている。このおかしみは、痛快とも、軽妙とも呼び難いものです。ましてや、説教臭い教訓や、「いい話」からもかけ離れたものです。もっとしょうもなく、くだらなく、屁のような……当たり前のことがただ当たり前であることの、ひょうひょうとした滑稽味とでも言うべきな……否、それはわざわざ言葉にせずとも、久瀬棠庵という、キュートでとぼけたキャラクターの形をとって、お話のど真ん中に腰を下ろしているじゃないですか。益体もなく、肩に力も入らない1作であり、ゆえに、京極作品中でも極めつけに好きな1冊です。『オジいサン』『虚言少年』の熱烈なファンとしては、偏愛してしまいますね。是非、続編が読みたいです。


闇祓/辻村深月

 高校、団地、職場、小学校。人間関係に生じた小さな歪は、「奴ら」によって増幅し、やがて死すらも引き起こす。ヒトの世に紛れ、ヒトの言葉を使い、他者の心に闇を押し付ける……その手口を、誰かが闇ハラ(闇ハラスメント)と呼んだ。これは恐るべき闇ハラを祓う、闇祓の記録である。

 人間関係の薄ひだの隙間に詰まった穢れを、丁寧にぬぐいとり、舌の上でゆるゆると溶かすような圧巻の筆力。辻村深月の確かな実力により、ひとつのコミュニティが壊れてゆく過程が描かれるのは、肌が粟立つほどにおそろしく。……そしてその出来事が「闇ハラスメント」という膝から崩れ落ちたくなるようなネーミングと、ジャンプの退魔もの読み切りみたいな設定で処理されるという奇天烈なまでの食い合わせの悪さ。生々しい人間関係が、「くらえ聖なる鈴!」「うぎゃああああ!」のフォーマットでさばかれるギャップには、読んでいるだけで脳味噌がバラバラになり、変な笑いがこみ上げてくる。辻村深月流の心理描写が、そのまま少年漫画文脈における悪の幹部のキャラ格描写に変換されるのも、もう凄いアイデアなんだかふざけているのか……「バカな……たった一振りで町を消し飛ばしただと!」ならぬ、「バカな……たったひと言で職場いじめを傷害事件に発展させただと!」 なわけで……もう、なにがなんだか、げらげら笑ってしまいます。話数を重ねるに連れ、徐々に敵組織の全貌が明らかになってゆくのも、少年漫画として真っ当におもしろしく、しかし実際の内容はママ友サークル内のマウンティングに、年下上司による中途入社社員いじめなのだから、本当に凄い。とにかく変。めちゃくちゃ変。紛れもなく辻村深月にしか作れない代物ながら、怪作と呼ぶほかありません。何なんだこれは。超おもしろかった。


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