見出し画像

最近読んだアレやコレ(2024.07.07)

 ここ数週間は引っ越しでどたばたしておりました。「どたばたしておりました」と書きはしましたが、職種上、引っ越しにはとても慣れており、家探しから蔵書の荷造りまで、全ての手順は既にルーチン化されていて、やるべきことをやるべきタイミングで粛々と実行してゆく、ただひたすらの過程のみがそこにはありました。雪国から都市部、陸の孤島から港町まで、種々巡っておりますが、今回の新天地の最大の喜びとしては家の風呂がデカいこと、それに尽きます。体を横たえてゆうゆうと足をのばせるのが本当にうれしく、毎日1時間くらい湯につかりながら文庫本を読むのが習慣に。ちなみに、私はカバーさえ綺麗であれば気にならないので、紙の本を風呂に持ち込む場合は、皮を剥して実だけを持ち込む流儀です。

空っぽの本棚は引っ越しの季語

■■■



VR浮遊館の謎/早坂吝

「名士タイラー卿の招きにより、集まった7人の魔法使い。しかし、卿は姿を消し、何者かの魔法の力によって館内の家財が浮遊し始める。黒幕と思しき魔法使いの正体は?」……舞台はフルダイブVRゲーム機の試遊会。犯人AIが罠を張る推理ゲームに、探偵AIと助手(人間)が挑む。探偵AI第4巻。

 相も変わらずたわけたことを大真面目にやっていて、本気の軽薄にゆるくときめく早坂ミステリの最新弾。20年間人間を殺し続けているサイコ連続殺人鬼、VRゲーム機の試遊会という舞台設定、8属性魔法が謎解きに絡む特殊設定ものの建てつけ、そしてシリーズの主題でもあるAI探偵ならではの長所と瑕疵の突き詰め……ハイカロリーな要素をごってり盛り込んでいるにも関わらず、どうにも脱力気味でゆるゆる読めるこの感触は、このシリーズ特有の魅力であると思います。首相公邸を舞台にした2作目、ミサイルが飛び交った3作目。物語のスケールアップとリアリティダウンはこの4作目でも容赦なく進行しており、終盤で迎えるはちゃめちゃぶりには思わず笑い、さらに、それが推理小説の大ネタとみっちり癒着している事実にもう1度笑い……。推理小説に対して思う「呆れ」は、決してネガティブなものだけでなく、「よくもまあここまで」という感心のニュアンスが滲みます。また、種々のIT技術を推理小説に絡めてきた本シリーズですが、その噛み合い方の必然性の高さに限れば、1巻1話「フレーム問題 AIさんは考えすぎる」を越えて過去最大だったと感じます。語り手の視界の特異さに肝があるという点で、同作者の『ドローン探偵と世界の終わりの館』とも読み比べたいかも。


眩暈/島田荘司

 御手洗と私が手にした、とある青年が書き残した日記。そこに記されていたのは、切断された男女の死体が両性具有となって蘇り、獣頭の人々や恐竜が歩きまわる、朽ちた街の記録だった。常軌を逸したその文章を、御手洗は正確な描写だと断じる。虚構と現実を行き来する推理と冒険が始まる。

 悪夢めいた記述が探偵の推理の力によって解体されてゆく。そして、解体によって生じる真相は、決して興ざめさせるものでなく、むしろ謎に勝る妖しい力を帯びている……後年発表の『ネジ式ザゼツキー』に類似した仕立てでありながら、推理小説としての在り方は大きく異なっています。推理の大翼を広げ謎の海を渡ってゆく巨きさに魅せられた『ネジ式』に比し、本作はむしろ逆。妄執めいた推理によって繊維の1本にまで分解された虚構が、現実の隙間に入り込み、見境を失わさせてゆくのです。両者がゆるゆると混じりあう感覚は、確かに題にある通り『眩暈』と呼ぶ他になく……それは寄る辺の喪失が引き起こすもので……時間・空間・物語といった目に映る全ての連続性のほつれによるもので……つまりは作中冒頭で示される「すべてが終り」の光景と一致します。迷路の真相とはゴール地点ではなく、迷路という構造自体であること。この場合、推理は真相に到達するまでのただの過程ではなく、それ自体が真相……迷路の構造を描き出す軌跡として機能する。現実と虚構を見失うがごとく、本作における謎と推理と真相は、全て同じひとつのもので、ゆえに本作の解決編は、ありえぬはずの終末の光景を、より妖しく、より悪魔的に語り直すものとなっています。超おもしろかった。


雪が降る/藤原伊織

「雪が降る」。友人の息子から届いたメールのタイトルは、志村の記憶を呼び起こすものだった。彼女は友人と自分の同期であり、後に友人の妻となった。そして……「母を殺したのは、志村さん、あなたですね」……志村は友人の息子と約束する。自分が知る真相を話すために。標題作他5編収録。

 以前に読んだ『ダックスフントのワープ』と比べると、視座が若者のそれから、若者を見つめるそれに変わっているように感じられ、事実、収録作の幾つかは、ある程度社会経験を積んだサラリーマンが主役を務めています。しかし、それは作品が帯びる「若さ」の脱臭を意味しません。むしろ、カメラのレンズが年経てうす曇りを帯びたがゆえに、内に閉じ込まれた魂はより青臭く、より痛痒く熟れているように思います。破滅に向かう若者と無頼を気取る壮年。かっこいいものを描くのではなく、かっこいいものを見上げ、真似する様を描く小説であることは依然変わりなく、その距離と角度がより研ぎ澄まされたことで、本の外に結ばれた焦点と、そこにある描きえぬ本物の気配はより色濃く匂いたっています。無論、視線の方向が「若さ」と「かっこよさ」に向いているとはいえ、それらが同距離というわけでなく。若者の姿をレンズに見通すことで、光が折れ、その先で焦点が合う……そのようなある種の身勝手なプロセスがここにはあり、それは少し恥ずかしくて、そしてかぐわしい。ごっこであり、ぶっており、酔っている。しかしその本物を見つめる視線の太さは、有無を言わせぬ真剣な迫力を放っています。


密やかな結晶/小川洋子

 わたしが生まれるずっと前から、島ではひとつずつ何かがなくなっていった。ひらひらしたもの。つやつやしたもの。「消滅」に関わる全ては記憶狩りが持ち去り、やがて何をなくしたのかすらわからなくなる。ただし、なくしたものを忘れられない人々も、この島には少しだけ居た。長編小説。

 Amazonリンクは新装版を貼っておりますが、実際は旧装丁版の文庫で読みました。人間から何かを奪いとってゆく。そのヒトがそのヒトである定義が崩れてしまう最後の一線まで、滑らかで丁寧な手続きに従って、そのヒトを形づくる部品を取り上げてゆく。抵抗や摩擦を伴わない、透明な刃先が皮膚の内にそっと滑り込むような種類の痛みもこの世にはあって、それはおそらく痛みであっても、苦痛ではないのかもしれません。実際、本作においても、記録の消滅を促進する人為は露悪的に描かれておりますが、記憶の消滅という自然現象自体は、限りなくフラットに……否、ほんの少し惹きつけられるベクトルを持たせて描かれているように思います。残酷なまでに純粋な喪失そのものと、その派生物・副産物として生じた言葉や肉が纏う芳香。本作は、両者を行き来しながら小説をタイプしてゆく小川作品の王道であり、かつ、とことんその道だけを突き詰め、ある種の寓話として読めてしまうほどに削ぎ落とした作品であると思います。ただし、本作は間違っても寓話ではありません。喪失と空白を限りなく写実的・主観的に描いたこれは、どこまでの具体な記述であり、タイトルにもある通り、まさに「結晶」と呼ぶべきものでしょう。小川作品は、いつ読んでもエッチでいいですね。


この記事が参加している募集