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細川幽斎と息子・細川興元
細川興元は細川藤孝(幽斎)の次男、細川忠興の弟。
今回はちょっとほほえましい、父と息子の逸話を紹介します。
『峰山郷土史』からの抜粋です。丹後時代の幽斎と興元のおはなし
【封域分数貢税誌】
ある時幽斎は、次男の興元を呼んで、かつて将軍足利義満が日本の国々の大小、広さ、等級(上下)、方角、米高、名産などを書きとめさせた『封域分数貢税誌』のことを語り、「この書物は、先祖から伝えられて保存しているが、今、その当時と引き比べてみると、国内の様子は少しも違っていないよ。」と言いながら、その抜書きを与えた。(略)
この『封域分数貢税誌』は一国の政治になくてはならない資料であり、当時、またと得がたい門外不出の法典であったに違いない。
これを抜書して興元に与えた父幽斎の気持ちはまた、ゆかしいものである。しかし天正8年幽斎が行ったという丹後検知の結果は、11万700石とあって、封域分数貢税誌に記載されている12万3000石との差1万2300石となっていた。
この逸話は『岩滝町誌』&『丹後史料叢書』にも記載されています。
『丹後史料叢書』『丹州三家物語』からの出典が一番古いのですが、近代なんですよね…
近代以前の史料での記録はまだ見つけきれてないです。
さっくり検索してみましたが封域~の名前もこの逸話以外にヒットしなかったです。
もし原本や抜書きが現存してたらそれはそれですごい史料になるのでしょうね…!!
ざっくり考察
抜書きを忠興じゃなく興元に与えた=この時点での藤孝は、自分の支流を興元に継がせる予定だったんじゃ?と考えられる かも。
さいごに細川家の支流についてまとめておきます。
・藤孝→和泉上守護・長岡刑部家
・忠興→奥州家・肥後細川家 小さいときに奥州細川家と養子縁組してたようです。信憑性はいまいちのよう
・興元→谷田部細川家 たぶん藤孝の方を継ぐ予定だったけど出奔して独立。分家だけど熊本藩の支藩ではないようです
・忠隆→長岡(細川)内膳家
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