見出し画像

細川興元が出奔した後、細川家はどう対応したのか


細川興元は細川藤孝の次男、細川忠興の弟です。

興元は関ヶ原合戦の後、細川家を出奔。

興元の出奔後、細川家家臣・松井康之の叔父である玄圃霊三が松井康之宛てに興元出奔に関して書状をしたためています。

興元の出奔について幽斎や忠興が言及している書状は今のところ見当たりません。
なので玄圃霊三の書状が興元出奔後の細川家の状況を一番把握できる情報源なのかな、と思います。


『松井文庫所蔵古文書調査報告書』より引用しています。


玄圃霊三自筆書状
慶長八年
長岡玄蕃興元公、御国御立のき、江戸へ御越候節、江戸ニ而首尾不宜由、聴枩院三長老より書状并神文入

尚/\、御母儀、久敷不懸御目候間、越州之御為不苦哉と存、申上事ニて候、乍去、上意之趣、我等申上と相違候間、如何と其儀ハ不申候、此由可被仰候、此間者承及候ニ、玄蕃殿京都ニも無御座候由候、以上

玄蕃殿之義ニ付、御状并誓紙拝見。驚存候、其ニ付、有様条〻申上候、
一 去八月之末、伏見ニ御見舞ニ参候時、拙者何共不申上ニ、上意被仰出候趣ハ、越中母儀、以内證可仕様ニ、肝煎ニ候ヘ共、對忠興不届之条、不及是非之由、被仰候、次ニ越中ハ、玄蕃をも成敗も有度之由被仰候、其時、盛方院(吉田浄慶)并各被聞候、拙者在國ノ身御走候間、忠興存分尤由、申上候

一 左様ニ候ヘハ、京都さかい露顕ニ御はいくわい不可然之由、京都幽斎之御女中へ、御言傳申遣候、其ニ付、御驚候て、男を御させ候ハんとの事ニてもなく候、幽斎之下ニ御置候て、行〻ハ、越中殿へ御わひ事候て、御返し有度候、且ハ越中殿之御為ニも候間、江戸へ御下向之御留守之間も、御氣遣ニ候間、御諚ヲ請候而、幽斎下ニ被居候様ニ、  上意をうかゝい候ハんと御母儀より文給候間、忠興御道理之条、  上意ニも、尤と被仰候間、自然之儀候ヘハ、幽斎之御女中、忠興之御為も如何と存、文の様得御意候處ニ、  上意ニハ御子様達の所ニ御置候事も、安事ニて候へ共、忠興前不成候間、不成義之由、御諚ニ候間、我等申上趣ハ、左様ニては無之候、幽斎下ニも、心安ハ置不申候間、左様之義うかゝい候てとの事と、申上候へ共、御同返之御諚ニ候間、内證御母義如何様ニ御申候哉、不存候間、拙者も其後一言不申候、左様ニ候間、ニ良左衛門尉ニも、御母義之文ミせ申候、唯今下て、可懸御目と存候へ共、ほうく(反故)の中見うしない候間、無其義候、全非虚言候、

一 右之趣ニ候間、少も對、越州拙者無疎略候、人ニ被頼候て、無理を理の様ニ我等ハ申事ハ、一世ニ無御座候、慈悲故、御母義之被仰様も、尤と存、被仰出候次ニ申上候、

一 玄蕃殿之義、重而不申様ニと承候、安にて之御事ニ候間、申間敷之由、一筆進候、拙者式ハ、仏同前ニて、神をハ礼拝も不仕候へ共、被仰事ニ候間、書て進候、對 越州無等閑しるしニて候、

一 菅少兵よりも被申上候、此旨可被仰附候、恐惶謹言

十二月十三日 灵三(花押) (※原文はヨに大)

聴松院

松井佐渡守殿


いいなと思ったら応援しよう!

是ことり(ここ ことり)
良いなと思っていただけたら、サポートよろしくお願いします!おせんべいが好きなのでおせんべい代にします。

この記事が参加している募集