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細川光尚と鷹狩り

寛永8年、忠利が自身の嫡男・六丸(光尚)を鷹狩に行かせたいと老中の大井大炊守に願い出て、興昌のところで鷹狩りしたとの記録。
どうやら綿考輯録にもその記録があるようです~~

そのときの書状について大日本史料から抜粋。

◆寛永8年2月29日 忠興→忠利
一.六ニ従両(光尚)上様御鷂被遣、玄番(興昌)知行所へ鷹仕ニ参候由、浅采女殿より申来候、又自内外記も御鷂拝領、其御使ニ外記被参之由被申越候ニ、其方より何共不承候除之儀ニ失念と存候、末御礼も不申上六ニ加様之御懇一入之儀と存、満足此事候事


この書状が発給されたのが、前描いた興昌vs忠興のあの長い書状からちょうど二週間後。


たぶんまだぎくしゃくしてそう。

補足として、興昌・光尚以後の肥後細川・谷田部細川は縁戚関係もってたり、交流もままあったみたいです。
といっても大体谷田部細川がお金かしてー!ってせびってるけど…



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