細川ガラシャの早世した子について
この記事で少し触れている「ガラシャの早世した子供?について」の詳細をもう少ししたためていきます。
ガラシャの早世した子供?について
この呟きで言及しているのは、2018年に熊本で行われた細川ガラシャ展のこと。
当時展示されていた出品物の中に「諸社祠官伝授案并祓表書」というものがありました。
※『細川ガラシャ展』図録の31の品です。
これには、ガラシャが天正9年(1581年)11月、来正月誕生予定の子の安産祈願を行っていると記録されています。
そして『丹後史料叢書』に記されている、盛林寺の位牌がある子は天正10年の夭折です。
「諸社祠官伝授案并祓表書」は系図に出ていない子の安産祈願と説明されていましたが、ざっと逆算すると生後7~8ヶ月前後で命を落としたことが考えられます。
いったん整理してみると、忠興とガラシャの間に生まれた子は
忠隆
(天正10年夭折の子)
興秋
忠利
となりそうです。
本能寺の変、父親の死、味土野幽閉の後に子供の死が2ヶ月程の間に起こっているから、ガラシャのショックはかなり大きかっただろうことがうかがえます。
またガラシャは興秋が危篤になった時に洗礼を受けさせて救おうとした経緯があります。
夭折した子については史料が少ないので確証できるものではありませんが、この情報を前提に1582年~1586年までのガラシャの行動を考えるとものすごく悲痛な心境だったのではと考えてしまいます。
そしてガラシャが宣教師に宛てた書簡に出てくる「危篤である三男に洗礼を授け回復した〜」という記述は夭折した子を含めば興秋は確かに三男になります。
興元が洗礼を受けた時のことを記すオルガンティーノの書簡とも整合性取れるところがあるんですよね。
2度にわたる夭折の危機はまだ傷の癒えない玉ちゃんにとってものすごく回避したいことだったろうし、そりゃあ藁にもすがる思いで洗礼受けさせるよね…と思うのでした。
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