Photo by timotimo 細川家考察つぶやきまとめ③ 3 是ことり(ここ ことり) 2024年2月7日 15:40 過去にX(twitter)でつぶやいていた、細川家関連の考察まとめ。一部分かりやすいように追記修正しています。洗礼名という不変性知恵泉の松永久秀の回で、当時権力に合わせ姓を変えていたという指摘がありましたが、そういう名前の変化が当たり前の世界で、洗礼名という不変性の名を引き継ぐキリシタン界隈の慣例も戦国時代の人々にとって物珍しいことだったのかな?と思いました洗礼名は変えることが出来ないし、ニュアンスとしては聖人が名乗ってたものをそのまま借用するから、宗派ごとに特定の字が使われる僧の名とも違う。パーソナル性が強いイメージ。信仰者と宗教の限られた関係性のあかしみたいな私はキリスト教に全く縁がないけど、洗礼名と信仰者の関係は、パーソナルカラーや性格診断などで個人のパーソナリティを追求する距離感に似ていると思う。その感覚は戦国時代キリシタンが増加した一抹の理由かもしれない蒲生氏郷と細川忠興茶道の逸話が載ってる本に氏郷と忠興は常日頃仲悪かったって書いてて「おま…仲悪い人と一緒にお肉を食べるのか…!?お肉を食べる仲なのに!?!!?」とビックリしたあなたと私は友達じゃないけどあなたの友達と私は友達的な関係かもしれないし、悪友な感じもまた良い あと忠興が「氏郷表じゃええカッコしいだけど下駄とか鼻紙散らかしてますよ!(意訳)」て言ってて笑った 鼻紙散らかしの氏郷細川侯五代逸話集の読書メモ先日『細川侯五代逸話集』読み終わりました。現代語訳と読み下しが1冊にまとまってるの嬉しいですね。逸話集『随聞録』を現代語訳したものですが、結構エピソードから伺える人柄が統一されてる印象を受けました。昭和に筆写された奥書に筆者が「幽斎君ハ温雅、三斎君ハ勝気、妙解君ハ謹直、真源君ハ英知歟、妙応君ハ豪壮」と感じたとあり、私も同様に感じました随聞録が編纂されたあたりか、もしくはその前、綿考輯録頃から各藩主の特性の位置づけというのは行われていたかも。主君ごとに違う属性をもたせるのは、世間や人々に藩政・藩の権威を指示してもらうときに都合が良かったからでは?と思います。優しさ、武士らしい勝気さ、思慮深さ、豪胆さ。よりどりみどりの良い主君が治め、藩もそうした影響を受けてるのですよ、という潜在アピールみたいな。綿考輯録もものすごい量の軍記物や史料引用してるので、分かりやすくするために沢山情報削って整えてるんだろうな。一言でいえる特徴=第一印象、キャラ性は固定した方がその人に対する興味がわくので 細川侯五代逸話集 ―幽斎・忠興・忠利・光尚・綱利― (熊日新書) amzn.to Amazon.co.jpで購入する 忠興が藤孝の元へ戻った時期忠興が乳母との暮らしを終えて藤孝の元に戻ったのって着袴の儀がターニングポイントになってそう…と昨日図書館で『中世武家の作法』という本を見かけて思いました。忠興が戻ってきてから歌会や猿楽や能楽やあちこちで芸事披露させてるので。裏屋暮らしのブランクを埋めるように武家の男子として教育し始めてるなって印象を受けますしね。 中世武家の作法 (日本歴史叢書 新装版 58) amzn.to 3,300円 (2024年02月07日 15:35時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する どの細川越中守だよ陣小屋を取をきにして、馬二駄に付るやうに拵たるは、細川越中守なり、一間半に五間也、柱は樫の木を細くし、根に鐡(くろがね)を以石突をなす、上四方は桐油布也、本國と江戸と京と三ヶ所にこしらへ置けり『老人雑話巻上』老人雑話の忠興老人雑話に書いてある「公方をすえて慶賀の能」をした時に6才くらいの忠興が猩々を舞ったっていうのと、その帰りに門外で盗人に(着物か刀の?)後ろの紐を切られたのを覚えてる、って逸話がメッチャ刺さる http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920299/158おじいちゃんになっても6才くらいの出来事を覚えてるのって相当印象に残ってるんだろうなあ、というのと、猩々舞ってる熊千代ちゃんウルトラ可愛かったやろっていう気持ちと、うちの子かわいい!すごい!って藤孝さんドヤってそうだなという印象細川興秋の切腹したかもしれない場所の記述『新東鑑』巻之十九 同廿一日、細川越中守忠興は、洛外稲荷山へ従士を遣し、長岡與五郎有侶(ありさと)※を誅して献ず。是は越中守が次男たりしが、父と不和たるに依つて、今度籠城せし故なり。 ※一本に此の時式部少輔と称すガラシャの早世した子供?について『丹後史料叢書』をざっくり気になるところだけ読んでるんですが、第4輯に忠興の子息の位牌について記載がありました。上宮津?の盛林寺に光秀と忠興の子息の位牌(か石塔?)があるらしい。天正十年八月二十一日 早世郎安梅心大禅童子 とのこと去年の細川ガラシャ展で系図に出てこない子の安産祈願についての日記の記事だったかがあったはずなので、もしかしたら関係あるかも。忠興の早世した息子、いつ生まれたのかが分からないですが、系図通りなぞったら次男が妥当な…?忠隆→(早世した息子)→興秋→忠利という順序。生まれてすぐなのか、2才あたりで亡くなったのかは不明ですし、死因とかも不明ですが、時期的に本能寺の変後なので、どちらにせよ玉ちゃんにとってかなりダメージがありますね…うーんこれ本当ならきつい… 丹後史料叢書 第1-5輯 | NDLサーチ | 国立国会図書館 ndlsearch.ndl.go.jp ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! 良いなと思っていただけたら、サポートよろしくお願いします!おせんべいが好きなのでおせんべい代にします。 チップで応援する この記事が参加している募集 #日本史がすき 8,515件 #日本史がすき #戦国時代 #戦国武将 #細川忠興 #細川ガラシャ #細川家 #細川藤孝 #細川興元 3