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大坂夏御陣大光君軍功之私記②

細川興元は細川藤孝(幽斎)の次男、細川忠興の弟。
興元が大坂夏の陣に参戦したときの軍功記について紹介していきます。

①はこちらから▽


軍法通りの備えにしないまま合戦が始まり、土井方の戦況と興元隊の高名について。
あとまた馬の話がでてきました。関ヶ原の時といい馬の話が多い。


 河又武左衛門出陣の朝、佐藤勘兵衛と甲冑御身に増れり、我必ず功を立てんといふ、武左衛門笑っら行て制せずんばあるべからずと馬を馳て謂て曰く、御軍法の上は私法何の詮かあらむ、早々大炊頭の後に列すべし、大光君答へて曰く、某同じ御軍法に背かず、一番・二番の偏は勝負に懸るの法なり、敵は地形によって先手の左右に備るは珍しからず、如何なる図があるといふも土井の備に戦ひ初らざる己前に当手より決して一人も動すまじ、今御覧あれ、思召当るべしと言ふ、雅楽頭、尤も立帰れり


 双軍互に係を見合・時を移す中に、真田左衛門茶臼山より静々と人数を繰出、赤旗を押立てて七八丁はかり懸り来る、関東南の先陣越前宰相の手より足軽を出し鉄砲を同じ時に放す、越前の惣人数同勢に鯨波と啌と揃れば、数万の諸勢惣懸りに押懸り稍々暫く相戦ふ、野煙天に満て天叫び地に轟く天傾き地崩るの勢なり


 此時、越前守・加賀守以下諸将の勝負働き世に周く知る所なれば記さず。戦中闘いの間、敵勢の内何れの手先か一文字に御旗本に切掛る、今日を限り思い定めたる敵勢なれば其鉾先あたるべからず、土井の人数総に崩れ立を佐久間父子乗廻ししきって、下知を加ふるといへども騒立ち人数一列を定る事あたはず、此時大光君、あれよ見よ、さあらんと思ひしに、其潮合をじっと見切て下知を加え、左右の勇士皆太刀を抜、下知を待て、睨詰て控たり、一群たる敵へそれ懸と下知を加へれば、土方左源太・中村九郎太郎を先として手ぐすね引たる若者ども面もふらず切て懸る左源太一番に切掛て強敵と仕合、自身深手を負うといへともひるまず其敵を討取たり、此時大光君、阿波守を取立てよき武者と鑓を合せ高名なさしめたり、敵方の騎馬此のよしを見るよりもよく敵なりと突きて懸るを、大光君馬上に鑓を合て二・三合あらざるに馬より下へ突き落せり、郎等岡久蔵潜り込て其敵の首を取り、鑓下の高名を顕せり、大光君の馬、敵に突かれて屏風を倒すごとく倒れ死す

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是ことり(ここ ことり)
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