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晋州城の戦いにおける細川興元

細川興元は細川藤孝の次男。
細川忠興の弟です。

今回はその細川興元が、朝鮮出兵の晋州城の戦いでがんばったよ!という逸話の紹介。


『太閤記』より引用。

※文禄元年(1592)の晋州城攻防戦での最終決戦で興元が出ています。日付が6月になっていますがおそらく10月の誤りかと。

かねて云定しごとく、竹たばを付、西楼を堀際に上、城中を見下し、鉄砲にて射すくめ、六月十一日之早朝に結橋を、ひた/\と、堀へ投入/\、時の声を挙、堀へ飛入/\、結橋を打かけ、我をとらじとこみ合上りければ、結橋多くは折て、半より辷落(まろびおち)、其功空しく成ぬ。
長岡越中守舎弟玄蕃允、只一人結橋の左右に多く歩の者を付置、「吾城中に乗入まで、一人も此上りはしに上るべからず。若上りたるにおいては、汝等が首を給らん」と、堅く制しをき上りしかば、結橋折もやらず上りしを、見る人どつと感じつヽ、扨も/\と計なり。頓て堀に手をかけ、乗入んとせし処を、城中より鑓長刀にてつき落しければ、痛しや堀そこへ落にけり。

ざっくり現代語訳


かねてから言い定めていたように、竹束を付け、西楼を堀づたいに上り、城中(晋州城)を見下し、鉄砲で射すくめた。
六月十一日早朝に結橋をひたひたと堀へ投入し、鬨の声を上げ、堀へ次々と飛び入った。
結橋を堀に打掛けて我先にと混み合い上っていくものの、結橋の多くは折れてしまい、半分からまろび落ち、せっかくの策もむなしいものになってしまった。

長岡越中守の弟である玄蕃は、たった一人、結橋の左右に多く共の者を付けておき「吾が城の中に乗り入るまで、誰一人としてこの橋に上るべからず。もし上ろうものなら、汝らの首を捕る」と堅く制止し、上り始めた。
結橋は折れず、玄蕃が上れたのを見て、観衆はどっと感じ入り、さすが!とたたえた。
やがて堀に手をかけ、いざ城の中に乗り入ろうとするところだったが、城の中にいる敵により鑓や長刀で突き落とされてしまい、痛々しくも堀の底へ落ちてしまった。


ざっくり考察


たぶん士気上げ?とかの意味もあったんだろうけど、さすがに一人で上るのはいろいろと無茶すぎでは…

『文禄・慶長の役 文学に刻まれた戦争』では最後の激戦を飾ったのは牧使・金時敬の負傷と双牽馬の倭将(興元)の死である、という解釈で死んだことになっています(死んでないです)


この日興元は細川軍の先手当番だったようで、「自身城ニ乗入候迄者、一人茂橋ニ上申間敷」と厳命しています。


上りきったところで城内にいた敵方に鑓で突かれて転落。

その時の怪我がだいぶ酷かったようで、日本にいた幽斎は「玄蕃と与八郎(松井康之嫡男)の怪我は大丈夫??名護屋まで帰陣しておいで」といった旨の手紙を書いております。


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