細川興元の刀について:児手柏と国広
細川興元は細川藤孝の次男、細川忠興の弟。
今回は興元が持ってた刀について調べたので、その内容を紹介します。
自分が知っている、興元が所用していたと伝わる刀は「児手柏包永」と「国広」の脇差の2本。
◆児手柏(このてがしわ)包永
包永という人の作で鎌倉時代の刀。
足利義晴→細川幽斎に下賜されて、二尺六寸(約80㎝)あったのを使いづらいから短くしたそう。
この刀の特徴は刃紋。ふつう刀の刃紋は表裏ほぼ同じになるのに対し、児手柏は表裏違う紋だったので、スーパー文化人幽斎は万葉集の
『奈良山の児の手柏の両面にかにもかくにもねじけ人の徒』
(奈良山の児手柏みたいに裏表どっちにもうまいこという嫌な奴だわ~)
ていう和歌にかけて、「児手柏」と銘を刻んだとか。
一説によると、幽斎の遺品として興元の手に渡ったみたいです。
が、PHP『細川幽斎』の遺品引渡しの記述や綿考輯録には記載がありませんでした。
興元のもとに渡った理由としては、のちのち忠興と興元が和解するとき、家康が仲介として仲を取り持った際の仲介料として召し上げたよう。
(刀剣名物牒には500貫って書いてあるみたい!)
そのあと徳川頼房が養母のコネで貰い受けました。その後、水戸家に伝来してたようだけど関東大震災で被災。
特徴の刃紋も見えなくなってしまいますが現在徳川ミュージアムにて所蔵されています。
◆国広の脇差
とうらぶの堀川くんと作り手が同じか、その一門が作ったものだと思われます。
現存しており、今は個人の方が所有してるようです。
『国広大鑑』という書籍によると、慶長13年年紀の欄にこの刀の詳細が記載されていて、「長岡玄蕃頭源興元令作之也」との銘が入ってるようです。
ちなみに慶長13年は春に忠興と和解した年です。
なので多分上の児手柏を手放しちゃったのでそれの代わりとして作らせたんだろうな~と勝手に思ってます。
国広大鑑は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができますよ~
この国広の脇差は2010年夏に熊本県立美術館で行われた『大名細川家のよろいの美』で展示されていたようです。