スタイルはあるか
人前に出るときは服を着る。
どんな服にするか選ぶのが楽しい。
投稿する時も、自分をどう飾るか、または飾らないか、そこがけっこう重要なんだろう。
近代ポップアートのシンボルと言っても過言ではないアンディ・ウォーホルは徹底的な自己演出を考えていたはずだ。
世界的に成功したロックバンドX JAPANのYOSHIKIはビジュアルのインパクトが自分たちの売りになると考えていた。
ありのままの自分がダメなわけじゃない。
ありのままの人間性を表現するならば、そうである自分をどう表すかという話になる。
今日をドレスで配信し、明日をパジャマで執筆する、その逆もありだよな、なんてさ。
クリエイターとして観客や読者にどう演出すれば楽しまれるか考えるってことは、自分を気に入ってくれる人たちへのサービスであり、生き方や考え方の共有チャンスなのではないかと思う。
取り繕うって言い方がいつからかネガティブだとは思えなくなった。ほころびだらけの人間が取り繕ってる姿は滑稽か?
苦境や挫折を知った人が再び美しくあろうとする生き方は尊いって思い知ったんだ。
その看板や衣装に負けない素敵な作品やエピソードがあると、これはただのハッタリではなさそうだぞってことで、驚いたり感動したり、仲間を引き寄せたりする。
傷ついても間違っても生きていけるよ。
祈りを込めて表現したら、弱っていたり疲れていたりする人たちと一緒に「だよね!」って笑えることもあるじゃないか。
一貫したスタイルには好感を覚えられる。
変化するスタイルには関心を抱かれる。
どっちが良いかは決まっていなくて、手元にある服をどう着こなすか、それとも新しい服を創り出すか。裸で戦えるのだけどパンツだけは脱ぎませんって言い張る、そんなスタイルだってもちろんアリだろう。
ある小説の中では、新任の美術教師がちょっとふざけた生徒の作品について叱責する教頭先生に「これはユーモアです」と言ってのけた。人間が人間の表現をどう解釈したかってストーリーが、作品の意味を高めるよね。
ここであなただけの舞台を創れる。
みんなと共演するドラマも創れる。
フィクションもノンフィクションも、ここに集ったぼくたちの作品で、メッセージ。