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カルマの処方箋

カルマは重い?

インドで生まれた哲学や宗教には「カルマ」という考え方があります。日本語では「業」、シンプルに訳せばカルマとは「行為」という意味です。

人間がある行為をする、その行為によって結果が起こります。その結果をもとにしてさらに次の行為が引き起こされ、そして次の結果が生み出される。そのようにカルマの連鎖は延々と続いてゆくという考えです。

たとえ人間の肉体が死によって終了となっても、魂は死ぬことがなく、カルマの連鎖は肉体を超えて続くとされます。これが輪廻転生という考えに接続されます。私たちの今の人生は過去世になした何らかの行為の結果と、生まれてから続けてきた今生のカルマの連鎖の結果であり、さらにこのカルマは来世にも引き継がれていくのです。

インド好き、特にインド哲学やヨガなどに親しんでいる人にはおなじみの「カルマ」。ちょっと重苦しく感じる人も多いかもしれません。私もインド占星術を勉強する中で、より「カルマ」の考えについて学ぶことが多いです。

というのも、インド占星術ではそうした過去世から引き継いできたカルマ、さらに今生重ねてゆくだろうカルマを読み取ることができると言われています。その吉凶概念もカルマの考えに強く裏打ちされています。例えば西洋占星術では太陽は自己を表す重要な天体ですが、インド占星術では太陽をエゴと捉え、重要な天体ではありますが、軽い凶星とみなします。

人と競争したり、利益を得たり、自己主張に関わるハウスもインドでは凶扱いとします。人を押しのけて自己を主張する、蹴落として勝利をものにする。そうした行為には負のカルマを積むポテンシャルがあります。食うや食わずの凌ぎを削るような環境に生まれたり、人を蹴落とさなければ生きていけない人生では、良いカルマを積むところまで余裕が回りません。

その中で気がついたのは、もしかしてインド的にいう良い人生とは、過去の功徳による運の後押しがあり、(トリコーナ、ケンドラハウスが強く)、過去世からの負債も少なく、今生も悪いカルマを積むような行いはせず(ウパチャヤ、ドシュタナハウス絡みは少なめ)できればさらに良いカルマ積める(良いヨーガがある。)人生ということになります。そうすれば良いカルマの貯金はさらに増えて、来世もよりよく生きられるわけです。

古来からインドの人々は、そうしたカルマの連鎖の中をぐるぐる回り続ける生の連続を「サンサーラ(輪廻)」と呼び、生の連続によって作られた心の傾向を「ヴァーサナー」、心の深くに刻まれた潜在印象を「サンスカーラ」と呼びました。それらは複雑なパターンを心に刻印し、その轍の上を幾生にも渡って、人はぐるぐる回り続けるのです。何度も生まれては死に、毎度似たような欲に駆り立てられ、悲嘆を繰り返す、一時的な喜びがあったとしても、それは苦痛でしかありません。そしてその連鎖から抜け出すことをが「解脱」であり、サンサーラから抜け、「解脱」すればもはや「カルマ」がその人に影響することはないと言います。

結果を期待しない行為

自分のなしたカルマの結果は必ず返ってくる。これは究極の平等主義とも言えるけれど、人生の一切がカルマに拘束された人生という感じもします。過去世のすでに自分が覚えていないカルマの清算をしながら、今生もなるべく悪いカルマを積まずに生きるなんて、あまりにも消極的な人生ではないだろうか、と。

振り返れば自分にも、良くないカルマをあそこで積んだなあと思う出来事が数々あります。(笑)しかしそれに後悔して、罪の意識に取り込まれると、たちまち人生設計が明らかに無難な方向にシュリンクしてしまいます。
まるで「ゴールド免許のために運転しない」みたいな立ち位置になってしまう。カルマ論を表面的に捉えると、多分そんなふうになりがちな気がします。

でも、インド人の生き方を見ているとカルマのくびきに絡め取られて、縮こまっているようには見受けられません。そこには当然、カルマに対する様々な処方箋があるわけで。その代表格は、まずは善行(奉仕活動やお布施など)瞑想、神への献身、マントラ、プージャ。過去世から続く根深いカルマには作用しないが、変更可能なライトなカルマには効果的と言われます。

そしてどのようにしたら、不要な負のカルマを積まず、より良く生きるかを学びます。世の道に外れない生き方、あり方を「ダルマ(法、義務)」と呼び、インドはそうしたダルマに沿った生き方をとても大切にしています。さらにカルマを超え、最終的には解脱を目指す様々な修練方法や心のあり方が書かれた、多くの聖典やスピリチュアルな教えがあります。

その最も有名なひとつ、聖典「バガヴァッド・ギータ」では「カルマ・ヨーガ」についてこう述べられています。

「あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ。」

これはよく知られた一節です。
結果のために行為をしてはいけない。つまり、行為(カルマ)の結果を期待せずに行為すること、その結果がどんなものであっても受け入れるというあり方です。無為に執着してはならないというのは、まさに「ゴールド免許を失わないために運転しない」ことへの戒めです。間違いを犯すのを恐れて無為に留まってはいけないと言っています。

その時やるべきことを淡々と行い、その結果はなんであれ受け入れる。その「やるべきこと」の指針が「ダルマ」にあたります。


バガヴァッド・ギータはインドの大叙事詩「マハー・バーラタ」の中に組み込まれた一編です。弓の名手であるアルジュナは、運命のいたずらが重なり合い、同族同士が争い合う戦争で戦うことになります。自分が親族を殺さねばならない状況に直面しているのを深く嘆き、戦意を消失したとき、彼の御者である親友クリシュナ(本当は最高神の化身)が彼を鼓舞したその言葉が「バガヴァット・ギータ」です。

もしも、アルジュナのホロスコープがあったとしたら、どんなのだろうと想像してしまいます。親族を殺さねばならないなんて、超バッドカルマな訳です。でも生きていれば時に、アルジュアナほどでなくとも、どうやっても悪いカルマを積んでしまわねばならない場面がないとは限りません。そのような無情な運命をどう超えたらいいかが、この聖典の中に書かれてます。

私が消えれば行為だけが残る

なぜ、結果のために行為しない行為、がカルマを超えることになるのでしょう?
行為の結果をあれこれ気に病んだり、強く執着することで、心にサンスカーラ(強い印象)を作り出してしまうからです。いかなる結果であろうとそこに執着しないで行為することで、心に刻印を残さず、カルマが作り出すくびきを超えて行けるということです。
この理屈でいうと、「カルマ」が問題なのではなくむしろ「カルマ」によって刻印された「サンスカーラ」や「ヴァーサナー」が「サンサーラ」へ人を引き寄せる、という理論になります。

そして何が一番強い「サンスカーラ」の刻印を残すかといえば「私は」という自我への執着です。「これは私がやった」「これは私のものだ」「私は獲得した」「私は負けた」等々
カルマ・ヨーガとは「私は」という意識を超えて「行為」だけを行うということ。カルマ・ヨーガ=無私の行為と捉えられるのはそのためだけれど、本来的には行為の結果を期待しない行為、行為がどのような結果になろうとそれを受け入れるというあり方になります。

「バガヴァット・ギータ」ではさらにこう書かれています。

「知性をそなえた賢者らは、行為から生ずる結果を捨て、生の束縛から解脱し、患いのない境地に達する。」

解脱した賢者は「ヴァーサナー」や「サンスカーラ」を作り出す自我が破壊されているので、カルマから自由です。それは、「行為は起こり続けるけれど、行為する人がいなくなる。」としばしば表現されるものです。
「私が行為している」という自我意識がなくなれば、どんな結果も(素晴らしいものであれ、最悪なものであれ)心に印象を刻みません。行為だけがただ起こり続けます。行為は太陽が昇って沈むように、花が咲いて散るように、ただ宇宙の働きの一つとして、自然に起こり行きすぎていきます。

一見重苦しそうに見えるカルマの織りなす世界観の中で、インド人たちは結構軽やかに明るく生きているように見えるのは、究極的にはカルマとはそのようなものだ、という考えがあるからかもしれません。カルマを作るのは行為ではなく、行為に執着する自我、心の方なのです。行為している「自己」を取り払えば、一転して行為の責任は宇宙(神)のものとなるのです。(こう書くと屁理屈っぽいですが、さらに詳しく知りたい方はぜひ本を!)


結果に執着しないなら何をしてもいいのか?って聞きたくなるかもしれませんが、責任は宇宙にあっても、行為の結果を請け負うのは体を持った自分ですし、(賢者はどんな行為の結果を請け負うことになっても、それに頓着しません。)心の印象に囚われて生きているうちはカルマに影響され貸し借りを返す人生が続くのですが...

何もかも自分で行わないといけない、全ては自分の責任だと考える生き方と、行為の結果が何であれ受け入れる、それは究極的には宇宙(神)のものなのだと考える生き方。

まあ、どちらも極端はよくありませんが、最近ちょっとの間違いを凶弾する世の息苦しさには疲れ気味です。たまには肩の荷を下ろして、織りなされるカルマの責任を宇宙に預けてもいいんじゃないかなあって思います。縮こまらずに生きていきたいですね!



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