9ヶ月かけてみつけたもの
2022年新春。
6歳になる息子の某国立附属小学校の抽選があった。
前日の選考を終え、後は泣いても笑っても抽選結果を待つのみ。
受験者に対し、抽選で通るのは約半数。事前の選考結果は知らされない。
息子が選考を通ったはずと信じながらも不安で不安で夜中に4度も目が覚めた。抽選の夢を見ては起き、小心な自分を思い知らされる。
緊張の1時間の抽選の結果、、、息子は不合格だった。
かくして、我が家のドタバタなお受験騒動の9ヶ月が終わったのだった。
帰路につき、校門を出て息子と待つ母に連絡した。
抽選外れであったが、正直選考に対して不安が拭いきれない自分もいて、そんな本音がつい漏れ出てしまう。
「抽選なんだからそんなことを言ってはいけない」と母に諭され、どこか子供を信じきれていない自分に気づき情けなかった。
私は結局やりきれなかったと何処かで分かっているのだ。だから信じきれない事態を招いてしまったのだ。
自分のことではない息子のこと。
コントロールなんてできるわけもなく、受験を前にしても自分勝手に過ごしてしまう欲張りな自分は本気で向き合えていたのかと考えてしまう。
本音を言えば、私の中に様々な迷いがあった。
大学院在学中、東京を離れ田舎で生きようと決めたときは、あんなにもすがすがしく迷いは何もなかった。
しかし、その田舎に行くはずなのに、何かを手放せず、そこでの受験を選びどこかかけ離れていくお受験ママの自分に違和感があった。息子に与えたい環境、教育。考えれば考えるほど答えを見失っていたし、それは息子にも伝わっていたと思う。
今振り返るとどこかで県内唯一の受験小学校に息子を入れたいという浅はかな私のブランド信仰とも呼べるものを根底に感じている。そんな違和感や迷いが中途半端な状況を生んだのだ。
それに気づきいた今も、どこか吹っ切れずに落ち込む情けない自分。
まだまだ乗り越えるべきものが多そうだ。そして考えるべきことがあるのだ。
奇しくもちょうど1年前卒論を書き上げたあの自分に今の自分が誇れるか。誇れまい。
今の自分には思考の起爆剤がいるのだろうと心から感じる。
さて私のことはさておき、この9ヶ月がどうだったかというと、とても実り多く素晴らしい日々であった。
それまで自分のことに必死で、気づかずにいた息子のたくさんのことに気づかされ、大いに反省したし、改めて息子との関係を見直すことが出来たとも思っている。
ここ半年の息子の成長は素晴らしく、私が置き忘れた根本を問いてくれる日々だった。
受験というツールを使い、貴重な学びを得たことは間違いない。受験をしたことは本当に良かったと思っている。
そうだ、次はここからなのだ。
これをここで終わらせればそれで終わりだろう。ここから次へと進化させることが私がすべき次の一年なのだ。
受験会場で恩師の本を読み直し、妙に気に止まったところを思い出す。
自由と自立の話。
そうか、私の9ヶ月に欠けていたのはこれなのだ。
東京や田舎や受験。それに振り回される自分にばかり気がいき、私は本質を失ったまま、進んできたのかもしれない。
国立に求められる子供像の一つに「自立」があるが、私はその表面や形式にとらわれていたように思う。受験の経験は本当によいことだった。そこに違和感を生んでしまったのはその本質を理解せず、歪めていた自分だ。
そうか、この本質を息子に教えることが親である私がすべきことなのだ。
そしてその為には私自身もこの本質を追求することが必然だ。
やはり起爆剤は恩師だった。
自立が自由を生む。今日から私の教育訓としよう。
私は大分から回った。気付けたことをよしとしよう。
新しい目標ができた。
さぁ、何から始めよう。