【爆誕】「にゃむ」という名の凡人
✋・∀・)やぁ♬ フォロワー様も初めましての人も、これから長いnoteライフになるでしょうから、いつまでもお付き合い頂けることを願っているにゃむ♬ というわけで、今回は改めて自己紹介をしようと思うにゃむ♬ にゃむにゃむ打つのも楽じゃないにゃむ(笑) カットするにゃむ!
1.<note初投稿日> 2018年5月3日
ある時、Twitterで交流のあった「だいまり」さんがnoteの存在を教えてくれて、もともとmixiで日記?というか文章を投稿していたこともあって、何の迷いもなく「コレを使ってみよう!」と思ったのがきっかけ。 それからというもの、毎日投稿はできなくとも、文章作成やら画像編集やらに一層時間を投じるようになり、この機会を与えてくれただいまりさんには本当に感謝しているんだ。 ありがとー! ワードプレスもあるよー♬なんて教えてもらったり、他にもこういう媒体は存在していることを知ることができ、中でもこのnoteは自分のスタイルにピッタリかなと、以後、note一本で発信活動を続けることになったんだ。
確か1番最初の投稿は自己紹介投稿だったと思うんだけど、その時からまだ8か月弱経ってもなお続けている、というよりはライフワーク化しているという実感がある。 特に文章ネタが浮かばない時はExcelで画像編集して、画像を作ったことを機にテーマが浮かぶなんていうこともあって、いつも始めから「何について書こうか」と考えることはしてこなかった。 いったん文章を書き始めると、ありがたいことに思考が回転しながら指がキーボードを打ってくれる。 この時間がたまらなく幸せだと思える。 感謝しかない。
2.文章作成と画像編集が好きになった理由
2-1.<文章作成をライフワークにしている理由>
まず文章作成について言うと、生きていれば考えさせられることは星の数ほどあるんだなということを認識していながら、それを言語に落とし込むことをしないのはもったいないなーという思いがあって、そう思うようになったのは今に始まったことではなくて、もう何年も前からその重要性には気付かされていた。
普段、自分が何についてどんなふうに捉え、どんなふうに考えているかなんてことは、月日が流れれば数か月前の思考なんてほとんど覚えていない。 いや、覚えていないことが問題なのではなくて、毎日毎日同じなんてことはなくて、必ず何かあるし、毎度何かを考えている。 mixiで日記を書いていた時から「文章に書き残すこと」の魅力は感じていて、一時期全く文章を書かない時期があったんだけど、noteの存在によって再燃したんだ。
発信活動の大半は文章なんだけど、その主旨は、ボクがこのnoteで初めてタグ化した「 #思考の言語化 」に大きく関係がある。 普段自分が何を考えているかを言語に落とし込むことも重要だけど、さらに重要なのは、「言葉」一つにどれだけの文章が書けるのかということへの挑戦するということ。 物書きみたいなことはやっているけど、ボクは小説家でもなければライターでもない。 無名の凡人ながらも、個人として大切にしたいことがあって、それが「本を読むこと」と「文章を書くこと」なんだ。
大人になるとさ、大抵の人たちは毎日仕事で、休日はゆっくりしたり、気分転換に時間を充ててリラックスしたり、どこかへ出かけたり、というようなことが「自分の自由な時間」になるだろうから、読書や文章作成のようなことは好きなことじゃないとなかなかやろうとは思えないものなんじゃないかなと思ってる。 今はその両方が好きで、これに画像作成が加わり、好きなことが3つあることで時間は有意義なものになり、無駄な時間を過ごすこともかなり減らすことができていると思う。
欲を言えば、仕事で自分の好きなことを活かせると充実感は倍以上に飛躍すると思うんだけど、現実的にはなかなかそうもいかないなと思いながら、自由な時間が今は一番大事。 お金よりもね(・∀・) お金よりも時間が大事だと思えるようになったことで、お金を追わなくなったし、あらゆる欲求が消えていったんだ。 そのおかげで、今は「満たされない感覚」や「物事に対する飢え」といったものも感じなくなってきた。 それと同時に、余計なストレスも感じなくなった。 今になって思うのは、欲のままに突っ走ると、その分ストレスという反動が自分を傷付けるのかもしれないなということ。
2-2.<画像編集をするようになった理由>
そうだなー、社会に出てからというもの、何度も引っ越しはしているけれども、自宅にはPCが必ずあって、無かった時期はないんじゃないかな? 普通パソコンでやりそうなことと言えばネットサーフィンなんだろうけど、ボクは違ったんだ。 どういうワケか、気が付いたらMicrosoft Excelの面白さに引き込まれてて、始めのうちは表計算すごいなー!って思いながらポチポチいじってた。 特に仕事で必要だからとかいうことはなくて、Excelの便利機能が掲載されている冊子を買って、独学で楽しんでたらExcelの奥深さがどれほどのものかに驚愕したっていうね(笑) これだけは珍しくボクの好奇心を揺さぶってくれた。
アニメやマンガやゲームといった娯楽も嫌いじゃないし、好きなものだっていくつもあるんだけど、Excelの面白さは種類がまったく違った。 ソフトを開くと、新規作成画面には真っ白でたくさんのセルがあるだけで、見た目的にはすごく地味。 今はWindows10だけど、Windows2000やWindowsXPやWindows7なんかから比べればかなり使いやすくなったなーって思うんだ。 何がって、画像編集する際の機能が便利になったことね(笑) 描く気さえあれば、イイモノができるかもしれないって思っていて、世の中にはすでに「Excelアーティスト」なる肩書を持つ人物がいることを知り、彼らの技術は神業級で、心から感動したんだ。
ボクなんかまだまだで、今は思いのままに描いているだけ。 だから自称凡人ということなんだ(笑) まだ知らないことだらけで、知れば知るほどどんどんハマっていく気しかしない。 noteのヘッダー画像を作成するようになってから、とにかく意識しているのは「オリジナリティ」。 Excelの機能はある程度使えるようになってはいるけれど、マネばかりしてたんじゃ面白くないし、きっといつか飽きてしまうだろうなと思っている。 自分にしか描けないnoteヘッダーデザインを作っていこう!という思いで「 #noteヘッダーデザイン室 」のタグとマガジンを作ったんだ。
その他、「 #MONOデザイン室 」や「 #HANAデザイン室 」なんていうタグとマガジンも作って、とにかく描きたくなったら描くというスタンスで、放置気味のタグもありはするけれど、描く時は気分が乗らないといいモノは描けないから、これも自分のスタンスとして好きにやらせてもらっている。 で、ある時から思うようになった。 「あー、自分にもこういうことできるんだなー」って薄々ね。 才能の有無は無視して、とにかく好きなことに着手して、時間とお金を投じて価値を高めていくということができさえすれば、努力も苦痛なものではなくて楽しみながら成長していけるんじゃないかなとかいうことまで思えるようになった。
ただねー、キャラクターデザインだけは本当に難しいなと思っている(笑) これはもうセンスの無さが明白で、それでもたまにトライするんだ。 ヘンテコリンなキャラクターができあがって、それもそれで面白いなと自分で思っている(笑) 事、画像作成に関して言えることは、オリジナリティを追求すればこそ「創造力」が要求されるということ。 普段の生活で創造力が試されることってどれほどあるんだろうか。 少なくともボクは、画像作成以外ではほとんどないに等しい。
3.<文章作成と画像作成に「要求されること」>
これはあくまでもボクの持論なんだけど、文章作成をするには「語彙力」と「表現力」、そして「思考の回転スピード」が必要ではないかなと思う。 実際に自分で文章を書いていて、表現に困る瞬間があったり、何も続きの文章が浮かんでこなかったりすることは当たり前のようにあって、それでも挑むんだ。 今の自分がどれほどのスキルなのかはわからない。 こういうことで他者と比較する意味は感じないからね。 でも、たまに言われるのは「よくそんなに次々と言葉が出てくるね」とか「圧倒的文字数!!」なんて驚かれたりすることがある。 それでも凡人のボクは自分ではまだまだ全然足りてないと思っていて、素直に喜べなかったりするんだけど、結局人は自分が発信したものに対して有言無言問わず、自分の知らないところで評価されているんだなということ。
過去生きてきて、「字、キレイだね!」と言われたことが何度かあるけれど、ボク自身は「え?!」と素直に驚くしかない。 確かに、字はキレイに書けるようでありたいという意識はあるけれども、言うほどではない。 ボクの父が書く字は、字がキレイという域を遥かに超えて「達筆」なんだ。 どうしたらそうなるんだろうかと今でも疑問に思うけれど、なかなか壁は超えられない。 人にしかできないことってたくさんあると思うんだけど、こういう電子文字では、字がキレイとか汚いとかいう概念は全く無関係で、Excelなんかではいろんな書体に変換することもできる。 やっぱり味気ないというか魅力は感じられないんだよね、電子文字は。
凡人が書く文章も字も、描く画像も、他の何かに直接的に活かされる機会が必ずあるわけではない。 でも、人としてそういうことを丁寧に自然にできてしまうという魅力はボクが身に付けたい部分で、たぶんこの先もずっと意識することだと思う。 どんなに人工知能が発達したとしても、ボクは自分にできる限りの文章や字を書き、画像を描く。
4.<にゃむの座右の銘> 「中庸」「真の無頼」
35年生きてきて出会ってきた多くの言葉の中で、ボクは「中庸」と「真の無頼」という言葉によって生き方そのものの考え方をアップデートされたように思うんだ。 中庸は、「偏りのない」「バランスの取れた」といった意味。 真の無頼とは、「頼るもの無し」という気概のことを意味する。
現状を言えば、中庸という観点からすると20代までの考え方よりはだいぶ角が取れて、物事を多角的に捉えられるようになり、感情のブレによる考え方や言動・行動は多くの場合あまり良い結果には至らないということにも気付かされ、自分で言うのも変な話だけど、少しは大人になれたのかなという実感がある。
ただ、やっぱり昔と変わらないのは、どこに行っても自分は他とは別の、変わり者という視方をされているんだなということ。 こればかりはどうしようもない。 人間は、集団に染まっているように見せることはできても、本当の意味で個を集団の人たち同様に変えることはできない。 これは個人的な価値観だから、多くの人たちを否定するものではなくて、基本的に「周りに合わせて動く」という集団行動には必要な考え方がどうしても受け入れられない。 集団の中にいると、興味のない話を聴かされたり、人間関係上のトラブルに巻き込まれたりして、自分独りでいれば感じることのないあらゆるストレスを感じることになる。 それがわかっていてどうして自分の大切な時間をそのために投じなければならないのか、ボクにはわからない。
仕事上のことであればワガママなんて言ってられないのは当たり前だけれども、プライベートで誰彼と吊るんでどうのこうの・・・ということをボクは求めていない。 「自分が興味のある人と話す時間」と「自分が興味のない人と話す時間」、これは比率の問題ではなくて、本来は「自分が興味のある人と話す時間」に100%自分の時間を投じたいものではないだろうか。 大して親しくもない人から、ボクの意識外の全く興味のない話を延々とされることに対しては拒絶反応が出てしまう(笑) 誰とでも愛想よく? 協調性を? そんな常識はボクには通用しない。 そんなことを言う人には、ボクの常識は通じないことになる。
表向き良く見せて、事を曖昧にし、本音を言い合えない人とは心が通じるはずがない。 だから、馴れ合いを求める人たちからは、ボクは喜んで嫌われたいと思っている。 本音を隠してまで関係性を保とうなんていう「事なかれ主義」者の考え方は、ボクの理解の範疇を軽く超えていく。 そういう考え方の人は、同じ種類の人たちと関わればいいのであって、そういうことをまったく欲していないボクみたいな人間に対してまで薄っぺらい関係性を築こうなどとする必要はないと思うんだが。
人を選んで態度を変える人は嫌われやすい傾向にあるけれど、人を選ぶのは普通じゃないだろうか。 そういう人間を嫌う人たちだって、実際は相手によって態度や口調は異なっているはずだし、言えるほどのことではないと思う。 そういう仕様もないことで人を悪く言っている自分の姿を客観視できないものだろうかと思ってしまう。 これは実際にあったことだけれど、2年もの間、幾度となく会話してきた相手がボクに話していたことが全てまるっきり嘘だったという事実には唖然としてしまった(笑) あの時間は一体なんだったんだ?と言わざるを得ない状況。
「自慢話をしたがる人間」と「ウソをつく人間」と「人を悪く言う人間」の心理は共通して「自分に自信がない」「自分の弱みを知られたくない」ということが挙げられる。 それ以外に動機はないと言っても過言ではない。 つまり、「弱い人間ほど自慢話をしたり人を悪く言ったりウソ付いたりして、自分の性格や過去に触れられまいとする」のだと考えられる。 器の小さい人間の代名詞と言ってもいい。 そういう種類の人間たちとも表向き平然と関わらなければならない道理はない。 そう判断した場合には、何を言われても事務的に処理するだけでいい。 感情など表に出すほどの価値もない。 なぜなら、そもそもそういう人間たちは本音で語ろうとはしないのだから、こちらは機械的な対応でいい。
当然、そういう輩を頼ることもしない。 恩を着せられるようなマネをするようならば全力で断ればいい。 「あの時○○してあげたんだから」とか言う人は、大前提として「見返りを求める人間」なのだと思う。 だったら関わらないほうがいい。 本当に心通う人間関係というのはその辺に落ちているものではなくて、会う人、会う人をやはり観察しなければならないと思う。 人が人生で大小さまざまに幾度となく裏切られることがあると思うが、裏切りに遭うのは自分がそういう人間と関わっているから裏切られる機会に遭遇するだけで、元を正せば必然の結果だとも言える。
悪意なく、意図せず裏切ってしまうような事情に悩まされることもあるのが人生。 だから、例え裏切られたとしてもその後の観察は怠ってはならない。 「人は見た目9割」などと言われるが、本当にそうなのだろうかと思ってしまう。 見た目で相手の性格や人間性や本心や心情をどこまで知ることができるというのだろうか。 それが馴れ合い集団ならば、本音を抜きに互いに曖昧な関係性から成る集団ということになる。 見た目で人を判断するような人間ほど「言葉の重要性」や「コミュニケーションの在るべき姿」を考えようとしない。
残念なことに、どこの職場でもそれがまかり通っている集団が存在する。 これが現実であることは十分わかるが、少しくらいは冗談抜きに、曖昧さ抜きにして、本音でぶつかったらどうかなと思う。 風通しの良い職場を目指さなければならないのに、馴れ合うことで風通しが良いと感じている人たちがやたらと多い。 そして、いざとなると「他人事」みたいに反応して見せたり、「我存ぜず!」の一点張りのような態度をして見せたりする。
集団からは多くを学ぶことができる。 これはこれでプラスに捉えることができる。 その場に居合わせるとイラつくことでも、冷静になって考えてみると、素晴らしい観察対象であることがわかる。 そのためならば、いくらか集団に合わせてみて観察するのも一理。 ただ、観察という目的がない場合にはマイナスでしかない。 真面目な人間や真剣な人間を集団で寄ってたかって愚弄するなど笑止。 ストレートに人と関われるようであれば、自分の弱さを隠す必要もなくなるし、人を悪く言うことも、ウソを付くことも、自慢話をすることもせずに済む。
「演じる」ってことに個性を織り交ぜられない人は、本来の自分ではない接し方を毎日のように強いられることになる。 人疲れする人の典型ではないだろうか。 「本音で生きる」と決心できるくらいの強さが、現代人には欠けているように思えてならない。 事なかれ主義なのは別に構わないけど、そういう逃げの人生でいいのかどうかは考えてみたほうがいいと思うな、ボクは。 めんどくせーとか、どうでもいーとか、意味不明とかいう捨てゼリフを言う人も増えた。 抽象でもない。 意味が不明なのではなく、まったく無意味な言葉ではないかね? 「本音=自分の意思から出る言葉」という認識があれば、意思のない他人事のような話し方はしないはずだ。
真の無頼、この考え方で生きようと思えば、ウソも建て前も必要ない。 他人がなんて言おうとも、自分が思うことをストレートに言うし、それによって嫌われたならば本望。 それが真の無頼。 とは言っても、時と場合はやはり選ばなければならないし、やはり人も選ばなければならない。 ここに「中庸」が関わってくると思う。 真の無頼とは言っても、考え方があまりに偏っていたらそれはそれで余計なトラブルを生みかねない。
5.<最後に・・・>
これのどこが自己紹介だぁー!!って感じだね(笑) 平成最後というのを機に、新時代に向けての思いもあったのさ(笑) どうだったかな、今回のnoteを読んで頂いた方々。 よかったら感想などをコメント頂けるとうれしいなぁ~(・∀・)あはっ♬ あ! あとできれば、今回のヘッダー画像への感想もお聞かせ願おうっ!!(何者?w) 結局自己紹介noteが思いっきり脱線した形にはなったが、こんな感じでよかったら来年もよろしくお願い致しますね♬✋・∀・)よろにゃむ♬