◆能力を持った者には、それを正しく行使する責務がある/白い巨塔 財前五郎
何かしらを極めんとして突き詰めていった結果、成功したとして、人は結局のところ人であって、地位、名誉、名声、高額年収などをあらん限り手に入れたとしても、同じく人は結局のところ人だということ。
(ちょっと何言ってるかわかんないね)
毎日のように大地を照らす太陽。空を見上げれば激しく照らす太陽。水中に潜り、太陽を見上げる。海面の揺れによって太陽光がキラキラと光って見える。
沖合まで泳ぎ、そこから海底方向に向けて潜っていく。潜る、潜る、さらに潜る。すると、だんだんと太陽光も届かなくなっていき、深い海の底は暗闇。
◆深く潜る人ほど、光を失い、暗闇を彷徨う。
どうもこの人間社会というのは、“誰よりも優秀であること”や“誰よりも稼ぐ人”こそが人生を豊かにするのだということを前提に、全ての人たちが物心ついた頃から強いられてきた多岐に亘る競争において疑うことなく自身の時間と労力を費やす、そういう構造らしい。
何者でもない、何も成し遂げていない私が言うことではないのかもしれないが、これまでに数々の成功者たちの転落人生を見聞きしていてほとんど確信に近いものを感じている。
『何かしらの分野で競争してきた人たちが成功するために長い年月をかけて犠牲にしてきたもの。』
『それを取り戻そうと、成功したのち、過去の自分が我慢してきた想いや欲求がある時を境に噴出する。』
『その主たる要因となり得るのが「成功の代償」である。』
公開済みの過去の報道ではあるが名は伏せる。危険薬物関連ではプロ野球選手、タレント、歌手、女優、俳優、アイドル、性加害関連では市議、国会議員、その他公職者、番組プロデューサー、俳優、お笑い芸人・・・。
これだけでも十分なくらい、業種を並べただけで浮かぶ過去の有名人は、優秀な実績を残していたり、人気を集めて売れていたり、面白いコンテンツを提供していたり、世間で名が通るほどの謂わば成功者たちが散見される。
つい最近も薬物関連に性加害関連にと騒ぎになっている渦中の人物たちが世間に吊し上げを喰らっている。多くの人々が彼らを成功者だと認め、様々なコンテンツを楽しむ生活の中に彼らの存在は溶け込んでいたに違いない。
ところが、週刊誌にスッパ抜かれて記事にされ、世間にスキャンダルとして拡散されると、一時期騒がれたのち、彼らの存在が薄れていくのと同様に世間も離れていく、そうした現象が何度も繰り返されてきている。
私が言いたいのは、私たちはそれらの事実から何を学んできたかということであり、自分も一緒になって彼らを叩く意味は皆無で、そこから何を学び取るかのほうが何万倍も重要である、ということ。
◆勉強、塾、部活、習い事、社会人になってからの仕事・・・
競争社会とは言いつつも、様々な社会問題を積み上げ、これまで生み出してきたものを維持することで手一杯な状況で、新しい産業を創造し得ずにいる日本は、かつての経済力を大幅に縮小させ、景気低迷という長いトンネルの中を彷徨っているのが現状。
日本における競争領域は、本当に世界の諸外国を相手にした土俵なのだろうか。少なくとも後進国となり始めてからおよそ平成の30年間は、かつての高度経済成長の恩恵そのもので大して危機感も感じることなく惰性でやってこれた期間と言える。
令和元年を迎えて早4年、学校教育、部活動の在り方、LGBTをはじめとする性差別問題、政治とカネ、働き方など、様々な分野における常識の再定義が加速し始めた。
例えば、学校の部活動に関しては「水を飲むな」という暴論が崇高な精神論によってまかり通ってきた。これが、部活動中の熱中症による死亡例が確認されてからようやく社会問題視されるようになったとか、長時間の過度な部活動についてもつい最近問題視されるようになってきている。
職場におけるいじめやパワハラ、長時間労働や従業員のキャパを超える業務配分による労働災害などについても、事件事故として報道されてきたことによりコンプライアンス遵守を徹底するように政府の働きかけもなされるようになり、昨今では大企業だけではなく、中小の民間企業においても社内環境の報告が義務化されたなどといった変化が起きている。
労働人口が多く、生産性も高かった昭和後期と比べ、現在は人手不足に拍車をかけるようにコロナ問題も相まって、間違いなく職場環境は悪化していて、これによって更なる人的トラブルを引き起こすことにもつながってしまっている。社内における従業員同士の足の引っ張り合いを見たことがある人も少なくはないだろう。
これのどこがフェアな競争なのか。そうは言っても生活のためには容易に転職はできないし、しがみついてさえいれば給料は上がるという期待のみを支えに、なかなか上がらない月給をもらいにいく。しかしながら社会全体としての生産性は上がっていないけれども、働いている人たちが働いていない人たちに対する”ニート煽り”に必死になっているようで、未だに「社会のゴミ」呼ばわりをする輩も後を絶たないというのが現実でもある。
税金の費用対効果を考えれば、一桁万円の給付金配りで国民を黙らせて国葬を実施しようとしたりアフリカに3年間で数百億ドルの支援を決定したり、岸田政権による政治に関しては、痛みを伴うもの、感情を逆なでするもの、そういう印象が強い方針のように感じられる。これに拍車をかけるように某宗教団体の政治関与が取り沙汰され、岸田首相の支持率を加速的に引き下げるに至る。
もはや、向こう20年~30年は絶望しかない未来しか待っていない。ここからが本題なのだけれども、、、。
◆皆さんはこういう社会で、成功するために個人的にやりたいことを我慢して競争し続け、その結果がどうあれ、成功のために犠牲にしてきた多くのことを完全に放棄することはできるだろうか。
過激な言い方にはなるけれども、もし放棄できるのだとすれば、そういう人は完全に(意思を持たない)国家の奴隷である。毎日のように生産性の低い業務しかしてなくて、毎月のように安い給料に文句を垂れつつ、それでもそういう環境から離れられずに働き続ける奴隷である。
それでも個人としての優秀さに意識を預けるのか。労働の対価として受け取る給料もそうだけれども、本来はそれによって得られる達成感や喜びや遣り甲斐といったものがほとんどこの日本にはないばかりか、常に何かしらの問題に追われ、不満やストレスばかりが蓄積していくような労働環境に一体何を期待しているのだろうか。
「かつてやりたかったことをいつかはやってみたい」といった想いや、「世間体において良いことも悪いことも含む個人的欲求を満たしたい」という願望は、人ならではのもの。
社会的地位や名声を手に入れた成功者であろうと、無名の何者でもない一般人であろうと、個人の想いや願望を抑え「成功するために競争し続けること」は、その後の人生における反動として必ず自分に返ってくると思っていて間違いはないらしいことを、多くの成功者たちが証明済みである。
私は、「あらゆる大義は人を洗脳するには非常に便利なツール」だと考えていて、社会は多くの問題に直面して初めてそうした(誰が言い出したかもわからないような)歪んだ大義や常識に違和感を覚え、議論を始め、「最適解」を模索する。
だから、自分で社会のあらゆる現象や出来事に意識を向け、思考を回転させ、「自分は何についてどのように考えているか」を言語化できるまでやらないと、自分のものであるはずの意思が何者かに操作されたり既存のおかしな常識に囚われたりしたまま、適正に機能しなくなってしまうのかもしれない。
ドラマ「白い巨塔」の最終話で、癌によって命を落とした登場人物、財前五郎が最期に遺した言葉。
◆能力を持った者には、それを正しく行使する責務がある。
これほど社会が乱れてしまうと、権力を持つ議員でも詐欺事件を起こすというのが真実であり、現実となった。そして、これまで人気を欲しいままにしてきた大変優秀な歌舞伎役者や俳優でも「成功の代償」を払うことになるということもおそらくは真実であり、現実なのだろうと私は考えている。
卓球と言えばアノ人とわかる元オリンピック選手も未だに元夫との親権トラブル真っ只中。
私は一人の人間として、成功の代償を払っている彼らのことを一方的に批判する気にはなれない。というのも、自分が成功者でもなければ、元より何者でもないということもあるけれども、他者の歩んだ人生・生き様というのは私にはどう転んでも1~100まで理解できるものではないと認識しているからだ。
そういう意味ではツイッター民たちが繰り広げている賛成反対の不毛な議論には微塵にも興味がないため、口を挟むこともない。報道番組がツイッターの声をいちいち拾って伝える在り方には疑問しかない。140字で何が伝わるのかまるで理解できない。
かつては能力を正しく行使し、その責務を果たしてきた人たちも「人である」ため、何らかの形である時から成功の代償を支払うのかもしれないが、成功するために競争を続けているその最中においては、未来の自分がそんなものを支払うことになるとわかっているのならば、その道は選択しなかったかもしれない。
まるで、借金による利息が雪だるま式に増え続けていき、焦げ付いて破産申請をする・・・みたいな構図に似ているような気がする。
No.1になること、優秀であること、資格を取得すること、高額収入を得ること、高級品を購入すること、高級品を食すこと、高級ホテルに宿泊すること、高級タワーマンションに住むこと、高級車を乗り回すことなどなど、誰もが欲するであろうと洗脳させてきた「幸福」「贅沢」に対する認識は、今後時代の変化と共に自動的に上書きされていくものだろうと思う。
やりたいことやりたいとか、欲求を満たしたいなどという想いを抑えつければ抑えつけるほど、成功を目指す者にとってはその代償を支払う日に着実に近づいていくのかもしれない。
かつては持ち上げるだけ持ち上げて、スキャンダルが発覚すると一斉に離れて叩き潰すみたいな日本の異様な文化は自滅行為そのものだろう。それよりは、大前提に意識を向けて、人はどのように生きていき、どのように働き、どのように幸福を得ていけばいいのかを個人レベルで議論する必要があるように思う。
他者の失敗を叩いても誰も得をしない。そうは思わないか?
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