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◆問題とされる真実&事実への憶測や統計データに基づく議論が生む社会的分断のメカニズム

 すごく小難しいタイトルのように見えますが、事は至ってシンプルな内容ですので、読みながら考える機会にしていただけると良いかと思います☆

◇議論に終始する時代

◆“問題”とは何か

 人々が認識する問題にはいくつかの種類に分かれていて、それらを大別すると2つに分けて捉えることができます。個人規模の問題をミクロ(極小)、企業・国家・国際規模の大きな問題をマクロ(巨大)として分けて考えます。別の言い方に置き換えると、問題の種類によって母集団の数の違いとしてのマイノリティー(少数派)とマジョリティー(多数派)に分けて考えることもできますね。

 また、時系列を基準にした問題というものの大別をすると、「過去に起きた問題」「現在進行形で起きている問題」「将来的に起こり得る想定可能な問題と現状誰一人として想定していない未知の問題」に分けて捉えることもできます。

 そもそも問題とはどういうものなのか、その根本的な意味をどう定義するかを考えてみると、辞書的な意味だと「解決すべき問題」とか「課題」などと定義づけられているけれども、そういう認識に留まっているのは違うのではないかと私は考えています。

 わかりやすい例で言うと、少子高齢化に伴う人口減少そのものを問題視して、これを基準に議論をする傾向にあるのが今の日本社会だったりするけれども、中にはこれを問題として捉えるのではなく、こうした変化を迎えていることに適応していくための変化を重視する提言をする人たちもいたりします。

 少子高齢化は現代における現在進行形の問題なのではなく、20年30年以上前から想定可能なものだったとも言えるわけで、解決すべき問題かというと実はそうではなく、どのようにして適応していくべきかを考えるべき“課題”としての「想定可能な問題」だと考えるほうが理想的だろうと考えられるわけです。

 少子高齢化については、国家としての問題として議論されてはいるものの、もうすぐ年間の出生数が80万人を下回るような状況でこれと言って明確な政策転換をするでもなく、極めて少額の手当に留まっているのが現状。

 60歳以上の高齢の国会議員が20年30年先の未来のために今すべきことを実行できているかというと、できていないからこそこの30年間で日本は衰退してきたわけで、結局のところ老い先短い人間たちにとってそんな先の未来のことには真剣に考え行動する必要がないというのが現実だろうと思います。

 最近あった参議院選挙も、これまで通り、高齢者による高齢者の高齢者のための自民公明党が全体の60%を占める議席数を確保したわけですが、少なくとも向こう3年間は国政選挙がないわけで、コロナ禍が始まって以降の菅政権の果たした公約以上のことは期待できません。

 さらに、グローバル化が加速したことで日本は世界の変化に取り残されつつあるようになってきました。グローバル化という響きは良いかもしれないけれども、日本はさらに問題を抱えることとなり、加速する円安で通貨の価値もどんどん目減りしつつある一方、物価は上がるも給料は上がらないといったいくつものジレンマを突き付けられています。

 「現状の日本の問題はこうでこうでこういうことが原因で、こうすべきだ」といった議論は数多く成されているものの、一向に変化はなく、似たようなテーマの議論をウンザリするほど繰り返しているのが今の日本です。

 ひょっとすると、何が問題で何が問題ではないか、その仕分けすらできておらず、とりあえず専門家を呼んで議論をしてみようといった傾向にあるような気さえします。報道番組で議論されているテーマの中には、これといって正解のないテーマについて議論していることも多々見受けられます。その結果、優先的に議論されるべき問題が後回しになってしまうことも起きているように感じられます。

 過去から現在までに起きている問題について議論されることは非常に多いものの、将来的に起こり得る想定可能な問題や想定不可能な問題に関する議論は極めて割合が低いことも現実で、結局こういうことを今後も繰り返していくのだろうなという絶望が年々深まっていることを多くの人たちが気付き始めていて、当分良い意味での変化を迎えることはないだろうと、期待することすら諦め始めているように思います。

◆肌感覚で想定できた将来的な問題

 高校3年間、学校には行くものの帰宅したら晩御飯まで寝て、メシを食って宿題せずにさらに寝て、学校に行っても授業中に寝ていた私は劣等生で、進学のことも、将来の仕事のことも、ましては夢についてもまったく考えていなかったわけですが、私みたいな劣等生はその当時から年々増えてきたのではないかと思うのです。

 良い大学に入って、一流企業に就職して、経済的に豊かな生活を送りつつ、結婚をして子供を持つ、そういうことを望んで生きてきた人たちもいるでしょう。でも、私が高校時代に感じていたことは、「昭和の人たちが望んできた未来を望むような時代ではなくなってきている」ということなんですよね。

 社会全体が急速に良い意味で変化発展途上であるならば、経済成長も激しく、わずか数年先の未来ですらワクワクしたでしょうし、夢を抱いてそれを叶えるために多少きつくても頑張ろうと思えたかもしれませんが、1995年以降、社会を見渡せばなんでも揃っているような飽和状態で、平成の晩年からは、必要なくなったものが消え始めていく一方、これと言って日本が世界と戦えるような産業が生まれることもなく、イノベーションが起きないまま今に至っています。

 一番の問題は、非正規雇用制度の導入による低所得者の量産。アルバイトやら契約社員やら派遣社員やら、私もいろいろと経験しましたけれども、どんなに綺麗事を言っても結局は非正規なわけで、いつ失業してもおかしくはない環境であることには絶望などすることはなく、むしろ「やっぱりな…」という感想しかありませんでした。

 高校時代に肌感覚で見据えた自分の未来は、想像以上に厳しいもので、個人的に結婚や子を授かることを心底望むような考え方を持っていなくて良かったとさえ思っているほどです。こういうご時世で子供を3人も4人も持てば、まず間違いなく貧しい生活を強いることになるでしょうし、政府の打ち出す政策が十分な補助にならないことが続けば、毎度毎度ストレスを増していくことも想定できます。

 日本の食糧自給率もよく問題視されますが、海外からの輸入に頼らざるを得ない国である以上、数年の短期間に人口を増やすような政策を打ち出すことには、政府も躊躇してしまうのもわからないでもありません。これから高齢者の死亡率は急拡大していくことは予測されていますが、これも想定可能な未来であるわけで、その時期を過ぎるまでは人口を増やすという選択肢は持っていないのかもしれません。

 2050年~2060年頃には、日本の総人口は8000万人を下回ると予想されていますが、人口動態がそこに至るまでに対策を整備していこうと考えているのかもしれませんね。

 令和時代始まってまだ4年目ですが、令和という時代は「諦めの時代」「絶望の時代」などと認識してしまいます。ターニングポイントがあるとすれば2028年ですが、この年に日本経済が復活するかさらに悪化するかがハッキリするだろうと私は見ています。

 国内で報道される日本に関する情報というのは、それがどんなテーマ、問題、課題についてであっても、同時に諸外国ではどう捉えられていてどのような議論が成されているのかを対で比較することも多くの気付きを与えてくれる機会となります。

 本来であれば、学校教育そのものが過去の歴史について「テストの点数稼ぎのために暗記する」という学習ではなく、歴史の学習が現代においてなぜ必要で、現代の様々な問題についてどれくらい考え、言語化できるか、といった思考型の学習方法が必要だろうと思います。

 国語や現代文のテスト問題では、長文読解力を試す問題が出題されますが、私が初めてそのテスト形式の構造を理解した時、これで点数を得られたとして何になるのかと疑問しかありませんでした。「登場人物の台詞の中にある“それ”は何を示しているか、本文中から抜き出しなさい。」長文読解問題ではあるものの、実際には「答え探し」であって思考を必要としない、そういう意味の問の出題ばかりで、ハッキリ言って何の興味も面白みもない手作業でした。

 暗記型の教育課程がどれだけ意味のないものなのかを、ようやく社会が気付き始め、暗記型から思考型の教育学習が次々と導入されているようですが、こういう変化を今から50年前くらいには迎えていてほしかったなというのが正直なところですね。

 小中学生が「こんな勉強して将来何の役に立つの?」という低いモチベーションでほとんど手作業に近い宿題ばかりを課される日々を長年課してきた延長線上に立たされているのが今の日本。よく“無能”という言葉で低学歴者や低所得者または失業者を揶揄する人たちを見ますが、そもそも彼らが揶揄している“無能な人間”を量産してきたのは国家なわけで、少なくともこの30年余り、旧態依然とした在り方にただただ従属してきたことが最大の原因であろうと私は見ています。

◆なぜ自分が“偉い”のかを誇示する日本人のマウント思考

 今でこそ「既得権益」だったり「権力」だったり「同調圧力」だったりといったものが、人間関係、学校、会社、その他社会生活において人々を縛り続けてきたことで余計な問題を次々と生み出してきたということに多くの人たちが気付き始めていますね。

 小学校、中学校なんかで言うと、未だに学年で学習内容が振り分けられていることは疑問でしかありませんが、この日本では今も根強く「年齢差」で立場が左右されたり、「年上だから偉い」「年下だから年上に従うのは当然」のような気持ち悪い不気味な思想に洗脳されていますね。

 年齢だけではなく、学業やスポーツ、経験や人脈など、様々な要素を自身のアイデンティティであると自負している人たちは非常に多く、「なぜ自分が相手より偉いか」といった理由付けをする傾向にあるのも日本人の特徴の一つであろうと思います。

 「何かにおいて優秀であることは称賛されるべきである」という考え方が正しいわけではありませんし、「優秀な人間に謙虚さは不要」ということでもありませんよね。

 これはあくまでも私個人的に感じてきたことですが、人が“自分は偉い人間なのだ”と思い込むことを助長するワードとして「先生」が挙げられ、関わる人たちから常に「先生!先生!」と呼ばれ続けると、おそらく人は自分が偉い人間なのだと錯覚してしまうのかもしれないと。

 先月、立教大学の講義中に起きた、講師と学生のやり取りが動画サイトに投稿され、瞬く間に拡散したということがありましたね。興味のある方は観てみてください。

 この映像で罵倒し合う講師と学生の様子を、年齢や立場を基準に考察すれば、講師は学生よりも40歳以上年上で、講師と学生という立場からすると講師のほうが上であるわけだから、学生は講師に対して礼儀を以って接するべきであり、暴言を吐いていい立場にはない、と表現することになります。

 ですが、年齢や立場を抜きにして考察すると、講師は学生に対して「どういう教育を受けてきたらこうなるんだ」「どういう精神構造をしているんだ」などと、学生のバックグラウンドである家庭環境への罵倒、学生の人格への罵倒を公然と叱責していて、講義がつまらないと反発する学生は「面白い授業をしてみろ」と言ってみたり、「ハゲ」「4ね」といった過剰な暴言を吐いていますね。

 どういう経緯でこんなことになったのかはさておき、日本の小中高の“先生”や“担任”などという立場で生徒たちに授業をしている人たちや大学の教授・助教授・准教授などといった立場で学生に講義をしている人たちは、国家資格を持つ公職者であり、おそらくそこそこ優秀でもあるんでしょう。でも、そのことと人間性、性格、人望などといった社会性に関連することも同じく優秀であったり優良であったりするわけではないことは一目瞭然です。

 民間企業での就業経験のない公職者というのは、ただその一点のみが欠如していることで、様々な問題を起こしてしまっているのだと考えられます。学校を卒業して教員免許を取得して学校の先生になれば、一般的な社会経験をしないままに学校という狭い領域で何年も何十年も過ごすことになるわけですから、本来教育者として必要な価値観を生徒・学生たちに対して発揮することがないわけです。

 高校や大学を卒業して学校の先生になるのであれば、少なくとも2年間くらいは民間企業で働くなどして一般的な社会経験に触れる必要性があるとも言えます。そうでなければ、これから生徒一人一人がどんな進路を目指していくかといったことを考える上で、社会経験ゼロの教師が何をアドバイスできるというのか甚だ疑問でもあるわけです。

 中には、このように学生の家庭環境を否定するようなことを言う講師がいるわけで、学生から「普通に民間企業で働いたこともない人間が何を偉そうに言ってんの?」と言われたとしたら、きっとぐうの音も出ないでしょう。もし、民間企業であれほど派手に公然と従業員を叱責したとなれば、今このご時世ではパワハラで問題にされて当然の出来事です。

 また、“優秀な人間”であり、なおかつ“数々の実績を残している人間”であったとしても、生徒や学生にモノを教えることに長けているわけでもないんですよね。ですから、「“先生だから”偉い、“講師だから”偉い」ということではなく、そういう立場にある人間こそ、教わろうとしている生徒や学生たちに対する敬意はほとんど対等なレベルで最低限必要なのだと認識を改める必要があろうかと私は考えます。

 人は、自分に対して敬意を払う人に対して暴言を吐いたりはしないものです。

 日本に優秀な人たちがどれだけ存在するかは定かではないけれども、日本が今のように世界から取り残されつつあるような状況に至ったことが「人の優秀さは関係ない」ってことを如実に表しているとも言える気がするんですよね。点数稼ぎがお上手な優秀さで言うと、そういう人が優秀な実績を残せるわけでもないってことで、もうそろそろ学歴マウントが物議になるようなこともなくなるでしょうね。

 「知っている」ということ、「詳しい」ということ、これもこれからはより一層、優秀さを裏付ける要素にはならなくなっていくでしょう。こういうものよりは、新しい発想、人並外れた想像力、そういうもののほうが重要度を増していくと思いますね。

 なので、この社会から、とある人物の呼称として「先生」と呼ぶのを廃止したほうがいいんじゃないかなーなんて思いますね。すでに民間企業では肩書で呼ぶのを辞めて、全員誰に対しても“〇〇さん”と呼ぶようにしている企業も増えているようです。

 おそらく、こんなふうにして人々は社会的ステータスの付加価値というものを失いながら、誰もが同じ立ち位置で対等である、といったフラット化された社会で生きることになるんだろうと思います。果たして、フラット化されるのがそれだけなのかというと、そういうことでもないと思うんですよね。もっと他にもフラット化されていくことが出てくるでしょう。

 その結果、人々が互いにマウントを取り合うような言い合いなんかもなくなるかもしれませんね?

 一番気になっていたことは「家庭内ヒエラルキー」の謎についてです。私も生まれた瞬間から末っ子で家族の中で一番下という立ち位置で生活してきましたが、上に兄弟が二人いて、両親がいる環境で、父の「メシ食わせてもらってるだけでもありがたいと思え」、兄弟に対して母の「お兄ちゃんと呼びなさい」、私が小さい頃に初めてこれらの言葉の意味を理解した時、軽くショックを受けました。

 多くの家庭では当たり前だと思い込んでいる人たちもいるのかもしれませんが、家族なのに対等には扱ってもらえないのだと理解したその瞬間から、生意気な性格へと変わっていきました。この点で言うとアメリカの家庭環境とは大きく異なります。言語も関係しますが、兄弟間でも親子間でも下の名前で呼び合っていますよね。それだけでも家族全員が対等な関係であることを維持しているように映って見えます。

 家庭にも様々で、夫が妻や子供たちを奴隷のようにしか扱わないような家庭もきっとあるんでしょうけれども、最近増えていますよね、家庭内の殺傷事件。世間的に、法律では基本的人権の尊重だったり男女平等だったりと綺麗ごとが並べられた上で議論されていることも多々ありますが、もっと現実を直視して議論してほしいところですね。

 上下関係が大好きな日本人のおかしな慣習こそ、差別やパワハラやいじめを生んでいるのだと私は断言します。小学生でも、互いの親の仕事を比較して生徒同士の関係性に上下関係が生まれていたりする現実もあるほどです。早く眼を覚ましてほしいですね。

 そういう意味で言うと、身体的パワーの差で勝敗が決まる格闘技やボクシングでは、強いか弱いかだけが問われるわけで、朝倉未来さんが活動している内容はある種新しい気づきを与えるきっかけになっているのかもしれませんね。少し前までは、素人同士を戦わせることに何の意味があるんだと若干理解に苦しんでいましたが、Breaking Downという大会の動画を第3回大会から第5回大会まで観てみて考え方が変わりました。

 強さのみを競い、戦いが終わったあと、勝敗に関係なくハグをして互いに称賛し合う光景というのは、今の日本に最も必要なもののようにも映って見えました。当初思っていた以上に今後盛り上がりを見せるようになり、全てのプロの大会関係者に大きな影響を与えることになるだろうと期待しています。

 わずか1分間で全力で戦う素人選手たちの姿は、うまい下手に関係なく、考えさせられるものがあります。

◆真実だろうと、事実だろうと、そこに正しさを確定させる意味はない

 人が感じていること、人が考えていること、人が思っていること、人の個性や性格や感性が今の日本社会に積み上がっているあらゆる問題に対してどのように、どれほど具体的に言語化できるのか、そこを突き詰めていくことが重要なんじゃないかと思いますね。

 過去の統計データをいくら振り返ったところで、その延長線上に未来が想定されるわけではなく、今現在、時代にそぐわないこと、放置され続けてきた古い慣習なんかを次々と上書きしていくために必要なことは、「本当にそれでいいの?」「それおかしくない?」と言った上で、なぜそう考えるのかをさらに掘り下げて説明できることなのではないかと考えます。

 前提がおかしいと向かう方向性が初期段階からズレてしまい、数年後には想定していた場所から遠く離れてしまっているようなことにもなりかねないですし、仕組みを構築していく上でも土台となる部分の骨組みが弱すぎたり、不足していたりすれば、完成することなくいつか必ず崩れ去ることにもなりかねません。

 先日のアベプラで「人それぞれ多用問題」について議論されていましたが、これについては何年も前から私は不思議に思いながら人の話を聴いていたものです。議論や言い合いの最中に、間に割って入って何か妙案を言うのかと思いきや「まぁまぁ考え方は人それぞれなんだから喧嘩はこの辺にしようよ」みたいなことをあたかも当然化のように言う人がやたらと多いのです。

 人それぞれだから何?と聞き返すことすらも面倒になるほど、この言葉は議論の腰を折るものでしかない中身のないフレーズだと思いますね。それで言うと、「多様性」という言葉もなかなか怪しいものです。どんな意見があってもいいでしょうし、どんな選択肢があってもいいでしょう。でもそれは、事の内容に因りますよね。何でもかんでも多様性と言い出すと、みんな自由に好きにすればいいという話になってしまい、ルールも法律もあらゆる決め事が意味を成さなくなります。

 私が思うに、“多様性”という言葉は、様々に議論を繰り返してきた結果、「社会的分断が生んだ言葉」であり、「多様性が社会を分断する」と考えます。それが正しいのか間違いなのかはさておき、全てにおいて多様性が多様性がと言うのは簡単ですが、それほど単純なものではなく、多様性が求められることとそうでないことの仕分けができないのであれば、安易に多用すべきではない、それが“多様性”の持つ特性だろうと考えます。

 すべての議論に答えがあるわけではないですし、時には間違った結果に至ることも往々にしてあるでしょう。その度に批判するしか能がないというのは、本当の意味での無能だろうと言えます。

 結局のところ、人間社会というのは変化に適応していくことを常に要求されるわけで、方向性を誤ったなら修正すればいいだけで、本質的に問われているのは「修正スピード」のほうだろうと思います。常に画期的なアイデアが出てくるわけではないから人々は議論するわけで、すぐに正解を求めたり、証明を求めたりして相手を追い込むという議論の在り方はよろしくないと思いますね。

 仮に、とある人物の言っている意見が圧倒的に正しいとしても、それを大多数の人たちが理解できなかったり受け入れられなかったりすれば、その意見は正しくないという理解しかされないわけですから、そこはうまいこと理解を得られるような議論の展開をしていくほうが賢明なやり取りだろうと言えます。

 議論に感情を持ち込むと話が脱線しやすくなりますからね。アベプラの平石アナのファシリテーション力は本当に素晴らしいですね。

◆結局この世の中は曖昧なまま回っている

 人の考え方や意見・価値観というのはその時々で変化するものですから、絶対的なものが何もないんですよね。なんでかって、人は自分が信じている正義でも、立ち位置が変わるだけで正義の意味も同時に書き換えるからです。それは間違っているということではなく、至極当然のことです。

 人が如何に曖昧な生き物であるか、それは、特に日本人が好む同調圧力にも置き替えられるかもしれませんね。自分は違う考え方や意見を持っていてもそれを主張する勇気がなく、周りの雰囲気や周りの人たちの顔色を窺った結果、周りに倣うほうが波風が立たなくて自分がやり玉に挙げられることも避けられるから同調圧力に屈するんですよね。

 自民党政権は高齢者たちを同調圧力によって支配していると言っても過言ではないかもしれません。そもそも老人たちはこれまでに従属するほうが安心だと思いがちなところはあるでしょうからね。この流れを断つにはあと20年~30年待たないとなかなか変えられないかもしれませんね。

 私もよく「時代のせいにするな」って言われたことは何度もありますけれども、明らかに時代のせいだと今でも思っています。社会的なパラダイムシフトが起きる時というのは起きるべくして起きているため、タイミング的にこれに巻き込まれる状況というのはさぞ多くの人たちが不満を抱いたり痛みを伴ったりするのかもしれませんが、このん上がれは一度始まると誰にも制御することなどできません。

 人も社会も曖昧でグレーなまま回っているのに、〇〇主義とかいう偏った思想に染まろうとすることほど危険なことはないと思います。強いて言えば宗教もその一つに数えられるでしょう。

 一つの思想に染まり真実ということは、ただそれだけで対立を生む火種になりますし、時には血が流れることもあるでしょう。これほど何もかもが不安定で曖昧なご時世においては、「信じない」「まず疑ってかかる」というところを出発点にすべきではなかろうかと思うわけです。

 自分の頭で考えて咀嚼して、自分の言葉で意見を言う、そういうことを訓練することが今は一番大事かもしれませんね。他人任せの同調圧力では何も変わらないし、何も生まれない、そう思っておいて間違いはないでしょう。

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