◆“お金”について考える2/あなたが思う「価値のあるもの」とは
まず始めに、とある画像をみんなのフォトギャラリーへ出品した日から多くのnoteユーザー様の投稿にご利用いただいておりますことへ心より感謝を申し上げます。以下の画像です。
ハッキリ言って、何一つ意味を添えていないただの光る球体の画像でしかないのですが、この画像をご利用いただいた方の投稿は本当に様々で、「〇〇だからこの画像を使う」といった明確な理由はどうやら無さそうなのですが、ヘッダーにこの画像を使いたいと思って選択いただいているという事実だけで私は大変嬉しいです。ありがとうございます☆彡
◆「お金」とは何か
皆さんにとって「お金」とはどういうもので、どんなことに使いたいと考えているでしょうか。前回の「お金について考えるシリーズ1」の投稿の最後に、皆さんもお金とは何かを思い浮かぶ限り「お金とは〇〇である」と箇条書きにして書いてみてくださいと伝えさせていただきました。お金って何だと思いますか?
私が思うお金とは何か、いくつか並べてみたいと思います。
1.お金とは「エサ」である
2.お金とは「道具」である
3.お金とは「複雑なもの」である
4.お金とは「誤解させるもの」である
5.お金とは「返報性を持つもの」である
6.お金とは「感謝を強要するもの」である
7.お金とは「口封じに利用されるもの」である
8.お金とは「搾取されるもの」である
9.お金とは「いくら手に入れても幸福になれるわけではないもの」である
10.お金とは「社会的ステータスのマウントの取り合いには欠かせないと思っている人たちを生むもの」である
11.お金とは「金持ちがより金持ちになるために多くの人々を操るためのもの」である
12.お金とは「時に人を狂人に変貌させるもの」である
13.お金とは「人間の際限のない欲求を利用したビジネスを介して保たれる産業に不可欠なもの」である
14.お金とは「偽物を売ったり技術やアイデアを盗んだりして特許や著作権を侵害してでも収益に繋げたいとまで思い込ませるもの」である
15.お金とは「悪さをする者のところにも注がれるもの」である
16.お金とは「他者を騙したり洗脳したりしてでもむしり取る者を生むもの」である
17.お金とは「犯罪を助長するための道具として悪用されるもの」である
18.お金とは「格差を増大させる構造である資本主義の社会において、多くの人々に必要なお金に関する教育をせず、今となっては通用しなくなった様々な常識を刷り込んできたもの」である
19.お金とは「乞食を生むもの」である
20.お金とは「人々を惑わせるもの」である
ザックリと20項目並べてみましたが、いかがですか?私のお金に対する認識、だいぶ歪んでますよね。しかしこれは、私自身の人生経験だけではなく、これまでに起きてきた世間における出来事も踏まえた上でこのように認識しているのです。
私にとってお金とは「世間一般の常識」とは随分とかけ離れた価値しかなく、心底欲しいものや心底やりたいことのない私のような人間には、この社会で生きていく上で最低限必要な程度あればいいものだと考えています。だいぶ不幸な考え方だなと思う人が多いかもしれませんが、実際に私自身がそのように考えている、これが事実です。
なるほど、仕事における出世にも興味が持てないわけです。仮にですよ、出世したとして給料は上がるかもしれませんが、大して使い道のない私にとっては業務上の責任が重くなり、身体的精神的負担が増大することへの煩わしさのほうが大きく、必ずしも仕事をする上でのモチベーションが出世や高給ではないのだと自覚したのです。
特にこの日本ではほとんどの組織における縦割りの人間関係で、それ故の面倒臭さが常に憑いて回りますから、上下関係を前提としたどんな大義も私にとっては納得する根拠にならないことがほとんどでした。そういう主従関係の中でどうやってモチベーション高く働けるというのか、私にはまったく理解できません。
「あの人は体育会系だから上下関係に厳しい」という話を聴かされると、それが一体何だというのかと鼻先で笑っていたものです。年上だから偉いというわけでもないし、上下関係に厳しいから上の立場に立つ人たちへはすべからく敬うべきであるというものでもありませんよね。
優秀な人は優秀だし、優しい人は優しいし、厳しい人は厳しいし、真面目な人は真面目だし、怠惰な人は怠惰で、性格の悪い人は性格が悪い、という至ってシンプルでフラットな評価が必要なのであって、社会的地位がどうであるかはその人を敬う根拠にはなり得ないのです。少なくとも私はそう考えています。
働きづらくて仕方がありませんでした。現代はストレス社会と一言に言われていますが、紐解いていくと、人が人生において塗り固めてきたメッキベースで権力、権限、収入、立場などといったことが配分されてきたこと、その延長線上に現代のストレス社会が待っていた。ただそれだけのことだと私は理解しています。
随分と職場環境は悪化してしまったようで、昭和、平成、令和と、三時代の労働環境を比較してみれば、生きることそのものの難易度は爆発的に高まったと言えるでしょうし、まだまだ円安や物価高騰は続くでしょうから、今生きている人たちが経験したことのない未知の苦境に今後立たされることになることを鑑みれば、もっと難易度は高まるでしょうね。絶望しかない未来に乾杯です。
難易度の高まる社会で稼ぐお金は、本当に昭和や平成の頃と等価でしょうか?世間では給料が上がらないと騒がれていますが、そういう次元の話ではないような気がします。毎月20万円を稼ぐでも、時代が変わり、環境が変わり、社会構造が変わってきているわけですから、三時代それぞれの20万円の価値が等価なわけがありませんよね。その辺を履き違えている気がしてなりません。
昭和や平成の夏は今ほど熱くはなかったでしょう。ただそれだけでも労働環境は劇的に悪化してるんですよね。給料が上がらないことに文句を垂れている時点で、それよりも遥かに安く買い叩かれて働かされているのだという認識が、令和時代における「働いてお金を稼ぐ」ということだと考えるほうが適正なのではないでしょうか。
「仕事に行きたくない」と嘆いている人たちが増えて当然の状況が今であり、これからなのです。なるほど、日本の労働生産性が一向に上昇しないのも理解できます。非正規労働者たちが徒党を組んで正規社員たちと同等の待遇を要求しているシーンをニュース動画などで見かけることがありますが、大前提がそれを許さないように仕組みが出来上がっているのですから、裁判を起こしたところで請求は棄却されて当然の結果と言わざるを得ません。
元より、今更そのような行動を起こしたところで絶対に覆ることはありません。ようやく事の重大性に気付き始めたのも、肌身で感じられるほど円安と物価高騰が進行したからにほかなりません。政府による一桁万円の給付金で彼らが黙っていられるはずもありませんが、政府も正解を持たぬ状況下で社会は動いていますから、実施可能なギリギリの最適解を提示するくらいのことしか期待できませんよね。
もし、今のような社会でラスボスを倒すためだったり夢を実現するための冒険のようなロールプレイングゲームが売られているとしても、きっとこんなクソゲーを購入しようなどとは考えないでしょうね。
◆環境が悪化するとお金に対する価値観も劣化する
欲望だらけの人たちはきっと想像を絶する苦痛を体験することになるかもしれませんが、一方で、大してこれといって欲がない人たちにとっては環境がどれだけ悪化しようと平然と乗り切れると思います。
養子縁組で元顧客の養子になり、罪を犯して逮捕され、先日拘置所で自害した高井凛容疑者は一例と言えるかもしれません。あまりに強すぎる欲望は、事が発覚し逮捕拘留された時点で判決すらも待てないくらい不自由さに耐えきれないほどのものだったのかもしれません。
アメリカンフットボール元日本代表だったり仕事でも優秀な人物だったとされる高井容疑者。日本の平均年収を遥かに上回るくらいの収入はあったのではないかと言われていますが、何が彼を惑わせたのかについては、昨日の投稿でも書いた通り、優秀さとは関係なく、もっと本人の核に迫る部分との関連性を問うほうがより適切だろうと思われます。
ランボルギーニ、高級ブランド、高級レストラン、裕福な生活をしていることを露骨にアピールする彼のSNSから察するに、ある時「普通ではいられなくなった」そういう瞬間が訪れたのかもしれないし、何かがきっかけで理性の箍(たが)が外れて彼の本性にため込んだ欲望が一気に噴出したのかもしれません。(この点については昨日の投稿内容に関連しています。)
※ここで言う「普通」とは、一般的に質素で目立たない生活のことを意味しています。
彼の経歴は一見すると誰もが称賛するほどのエリート街道のように映りますが、一体何がトリガーとなって人道を外れる行為に及んだのか、真実となる動機や背景に潜む本当の心情については憶測の域を出ません。
憶測の域は出ないのですが、
『何かしらの分野で競争してきた人たちが成功するために長い年月をかけて犠牲にしてきたもの。それを取り戻そうと、成功したのち、過去の自分が我慢してきた想いや欲求がある時を境に噴出する。その主たる要因となり得るのが「成功の代償」である。(Image Creation LABO)』
成功するために勉強に励んだり、スポーツで努力して成果を挙げたり、仕事でも優秀な実績を積み上げたりすれば、周囲の人間たちはもちろん、世間に名が通ればその限りでない称賛を受けることもあるのだろう。ところが、多くの人々はそうそう簡単にそんなことにはならないし、努力しても届かない領域であればなおさら努力すること自体虚しい気持ちになるかもしれない。
アニメ「アカギ」の登場人物である鷲巣巌(わしずいわお)、彼は政府関係者たちの秘密、国内のあらゆる企業の秘密や悪事、中には国家機密までも知り得たのち、情報を手にした鷲巣は政界から身を引き、投資会社を設立後、談合やインサイダー取引を繰り返し、巨万の富を手にします。
戦後の日本では一生遊んで暮らしても使い切れないほどの財を築き上げた鷲巣はカネと情報の力を駆使し、強大な権力をふるい、あらゆる財界人や経営者を差し置いて、事実上、国のトップに立つこととなります。
しかし彼は、全てを実現してきた実績に満足することなく、老いていく度に狂人化し、どこの馬の骨とも知れぬ若者を捕まえてきては危険なギャンブルに引き込み、血液を賭けた麻雀によって多くの命を殺めるまでに至ります。
何よりも自身の死を恐れた鷲巣は、「これ以上(手に入れるべきもの)はもうないのだ」と悟り、人生に飽いて失意の底で若さへの執拗な憎悪により狂人と化したのです。
人生における成功とは、必ずしもその後の人生の幸福を約束してくれるものではないし、これ以上ない快感や刺激を一度でも経験してしまった者は、老いと共に失われていくものに絶望感や虚無感を強めてしまうのかもしれません。
おそらくこれも「世の中に絶対はない」ということの一つなのでしょう。どうやら「お金さえあれば何でも手に入り、自由さえも手に入れられる」といった幻想には賞味期限があるらしく、幻想から目を覚まし、現実にはそうではないことを自認した時、初めて「どう生きても自分も一人の人間なのだ」ということにも気付かされるのかもしれません。
誰が植え付けたかも定かではないそのような幻想は、世代を超えてなおそのように信じる人たちが後を絶ちません。
私はある時思ってしまったんですよね。冒頭の20項目のような認識をするようになった頃から、お金に執着しても(少なくとも自分が)幸福になれたり快感を得たりするわけではないし、むしろ、身に余る財を持てば狙われるし、貧乏であるが故に搾取のターゲットにされたりして、どちらにしても良いことがない、と。
◆お金という概念を切り離した「自分にとっての最高の時間の過ごし方」
お金というのは、稼ぐ時も、何かに支払う時も、借りる時にも、返す時にも、お金が絡む瞬間には常に責任が伴うものですね。
一時期、優生思想発言をしてしまったメンタリストDaiGoさんは、ホームレスの方々の命を軽視するような発言をしたために、ネット上で大炎上しましたね。
年間で億単位の収益を上げている彼からしてみれば、納税額も相応に高額で、納税額の大きさそのものに自負するものがあったのかもしれません。誰もが彼のような立ち位置まで上り詰めることができるわけではありませんし、大半の人々がこの資本主義社会の下層の住人であることは確かです。
ですが、誰もが羨むほどの社会的ステータスを身に着けながら、自分よりも下の人たちに対して無能だの貧乏だの価値がないだのと言ってしまうと、その瞬間にメッキが剥がれてしまい世間に映る己の姿は「自分らと大して変わらない一般人」としてしか映らなくなってしまうのです。
多くの人々の存在があるからこそ億単位の収入があり、億単位の納税ができているわけで、これを自力で手にした自分の手柄のように詭弁を語ってしまうと、それまで興味を持ってくれた人たちや応援してくれた人たちの想いまでも踏みにじることになります。
世間一般的に見た成功者たちというのは、努力の甲斐、産まれながらの才能はもちろん関係しているでしょうが、大前提として人や環境に恵まれているからこそ到達できた社会的ポジションなのだということを本来は忘れてはならないはずです。
ところが、どんな人であれ成功すれば態度も考え方も言うこともそうなる前の自分より横柄になってしまっていたり「失礼な人」のように、誰がどう見ても昔とは悪い意味で変わってしまったと思うに至るのかもしれません。
お金ありきの思考や行動は確実に人を不幸へ導くのだと思います。私も女性関係で不快な思いをしたことがあります。大して親しい関係ではなかったのですが、食事へ行くでも買い物へ行くでも、そういうことに付き合うくらいはと思っていたら、明らかにお金に集(たか)っているだけで、人としての関係性を無視したような雑な人、巷で言うところの”乞食”のような女性だとわかり、私のほうから離れていき、自然と関わりを持たないようにしたことがあります。
人との付き合いには多少なりとも金銭はかかるものですから、相手がどんな人でどういうつもりで自分と関わろうとしているのかを知るための勉強代という意味ではケチるつもりはありませんが、わずか数回の交流で上記のような浅い目的で近付いてきているだけなのだとわかると、それ以上無理に関わる意味がないのです。
好い顔をして近づいてくる人の大半はお金目当てですから、そういう意味での観察眼は鍛えられるため、若いうちは多少受け入れて接してみるのもありだと思います。しかし、自分にとって大してプラスにならない、ただお金に集るだけの、関わってもマイナスでしかないと判断したのであれば、サクッと関係を断って、より自分にとって価値のあることにお金を使うようにすることの重要性については自ら気付く以外に方法はありません。
お金ありきで人と関われば、時に良いこともあるのかもしれませんが、そうそう単純なものでもありません。中には返報性の法則を理解している人から何かをしてもらったり、何かを貰ったりすると、「自分がしてやった以上のこと」「自分がくれてやった以上のもの」を暗に相手から要求される場合もあるため、そういうやり取り自体が煩わしいと感じる人は無理に相手に合わせることは避けたほうがいいでしょう。
世の中にはいろんな人がいます。平気で他人のお金を貪る人もいれば、何食わぬ顔で近寄ってきて自分だけ得をして去っていくハイエナのような人もいます。若いうちだけですよね、騙されたつもりで関わってみるという経験が重要なのは。こちらが求めてはいないのに無理に誘われて飲み代を奢られたりすると、次回はこちらが奢らなければと感じさせられるものの、大してその人と親しくなりたいと思っていない場合は苦痛を伴うものです。
世間体的に大人としての関わり方を重んじるか、そんなものは無視して自分のより良い時間の過ごし方を重んじるか、それによっても人との関わり方は違ってくるもので、何が正しいかは自分で決めたらいいというもので、世間や他人を基準にしていればいいわけではありません。
自分の「より良い時間の過ごし方」を重視するのであれば、お金ありきでなくても、楽しんだり癒されたりする過ごし方はいくらでも見つけられるものです。人との関わりを持たないほとんど孤独に近い生活をしている人たちが一概に不幸だということではないんですよね。
というより、自分ひとりで過ごす時間ではなく、周りに人がいる状態で感じる寂しさを正しい意味での孤独だと私は認識しているため、寂しがり屋な人であっても自分ひとりでいる時の過ごし方を工夫することで孤独感から免れることができるようになります。
社会の構造には、そうした、人が感じる孤独に付け込むビジネスも多く、汚い部分も含まれています。寂しさを埋めるためにお金を使って気持ちを紛らわせたり異性に貢いだりしてしまう人たちが、違法な出会い系や風俗店に搾取されているという実態があることはよく知っておく必要があるように思います。
「自分が何に対して価値があると思っているのか」については、「どういうことなら金銭を支払う価値があるか」ということではなく、お金という概念を切り離した上で考えてみると良いかもしれません。Time is Moneyと言われるように、時間はお金と等しいと私も思います。お金をかけなくても自分にとって価値のある過ごし方ができれば、金額に関係のない価値のある時間となるはずです。
これまでに自分が浪費してきた趣味、欲求を満たすために費やしてきたお金は無駄ということではなく、価値観を上書きしてみて、お金ありきの時間の過ごし方から脱却してみることで随分と気付かされることも出てくるでしょう。
なるべく、「お金さえあれば何でも叶う」「お金さえあればほとんどの問題は解決する」といった短絡的な考え方は持たないようにして、より良い時間の過ごし方を工夫する楽しさや面白さのほうに意識を向けていくことを推奨します。「お金がないと人は幸せになれない」は嘘っぱちで幻想だということに気付けると、人生は身軽に楽しめるようになると思います。
そこに行き着いてから過去の自分を振り返ってみれば、なんと多くの浪費をしてきたことか、深く身に染みて理解できるようになります。あまり世間の人気やブームを追いかけてしまうと、その時は楽しいかもしれませんが、結局のところ残るものは将来的にはあまり価値のないものばかりであることにも気付かされることになるかもしれませんね。
そのように一つ一つ気づきを得ながら、自分にとって最高の時間の過ごし方を突き詰めていく、そういう生き方もありです。