読書・学習計画について(1)
筆者には読書の習慣がない。
勉強の習慣もない。
研究生活などとは無縁の日々。
そうは言うが、実際には読書も学習も習慣づけようとして失敗を繰り返してきた。
気楽にやろう、などと思ってみたものの今に至るまでに継続できずに今がある。
言い訳はいくらでもある。
生来の性格、怠惰を許す生活習慣、仕事の疲れ、そもそもの関心の低さ、学習・読書の習慣を学生生活で確立できなかった、効果的な勉強のやり方・取り組み方がよくわかっていない……
などなど。
言い訳を正当化することはよろしくないが、かといってそれらを顧みず何も考慮しないのはよろしくない。
それらは紛れもなく自分が置かれている現実であり現状である。
ここに来て、改めて読書や学習の意義を問い直し、そして明確にしておく必要があるように感じる。
読書や勉強との今までの関係を再編するのである。
私の読書や学習にまつわるイメージを明確化する
何よりもまず始めることが重要とは言うが、かといってただ闇雲にやっているだけでは長続きしない。
いや、正確には、私は、自らの経験として単に始めるだけでは何も結果がでなかったというのが正しい。
私には、読書や勉強とはかくあるべしというイメージはあるようなのだが、それと現実との乖離故にやっても無駄だとの思いを強化しているところがあるように思う。
今一度、それを明確にしてみることにしよう。
その際、そのイメージが読書や勉強の意味するところとして正しいかどうかは問わないでおく。
ひとまず、イメージを現実化するためにはどのように振る舞えばよいかを分析していこうと思う。
私にとってどうある状態が結果が出ていると言えるのか
読書にしろ勉強にしろ結果が出ない、明確でないことにはやっている気がしない。
これらのことは常に何らかの結果に結びついてようやくその行為ができているのではないか、と思う。
なので、まず、どのような状態があるべき状態であるかを明確にしようと思う。
多くの量をこなし、読んだ本や学んだ箇所の内容を説明できるレベルに記憶している状態
学んだことを元に思考できること、文章を書ける状態
学んだ内容が頭の中やアウトプットした文書として整理されている状態
知識が積み上がっていっている状態
物事・概念を多角的・学際的に検討できる状態
合い矛盾する考えが同居しつつも、軸を持って分析できている状態
私に取ってどのような取り組み方が理想であるか?
結果には常にそれに至る過程を必要とする。
結果を手にするにはどのような過程を経る必要があるのかは明確でなくてはならない。
しかし、それは過程自体を目的としてはいけない。
あくまで、ここで述べたことは結果を手にするための過程であることを意識しておかなければならない。
なので、取り組み方が理想的でないからといって過度に落ち込む必要はない。
むしろ、取り組み方については結果が出ている状態を維持できているかを指標にすべきである。
習慣化できている(毎日何かしらの読書や勉強をしている)
習慣が長続きしている
可能な限りの時間を読書・学習に費やしている
私の読書・学習の動機や前提は何か?
ここにきて私は読書や学習の動機・前提といった始点を問うことにする。
何か始めるきっかけのようなものや前提としている状態があって人は物事を始めるように思うが、実のところ、それは問うてみればみるほどに取ってつけたように感じられるものだ。
これをキッカケにしようという意図的な始点程欺瞞に満ちたものはない。
それで始められればよいが、現に長続きしていない以上、あえて始点を確立するよりも、結果という目標から遡って考察した方がより自分事として捉えられるように思った次第である。
物事を思考するための視点・軸を確立したい
物事を思考するための基礎概念や枠組みを身に着けたい
社会に対して表現したい
知識や理論を生み出したい
読書・学習、それ自体が目的である
以上、始まり・過程・終わりの一連の流れを整理できたと思う。
こうして見ると、私にとっての読書・学習の意味は、より良い表現を目的とした独学ということになる。
私の学習をそのことに最適な形で組んでいこうと思う。
そのために私にとっての読書・学習行為を意味づけていくことにする。
竹崎弘司