『スロウトレイン』に卒制を重ねる
新春ドラマとして今月の2日に放送されていたスペシャルドラマ『スロウトレイン』を、4日ほど遅れて、配信サービスで視聴した。
野木先生の物語には、視聴者をその世界観にどっぷりと浸からせて放さない、そんな魅力がある。魅力と言うには些か鋭すぎるかもしれない、効果の強い睡眠剤のような。
それに、私という一人の人間ももちろん、骨の髄まで絡め取られてしまっている。
私の卒業制作の、深層に据えているテーマは、「この世に存在するあらゆる人間の全てはみな同じで、平等である」というものだ。平等である、べきである。と、言うべきか。
少しの属性の違いで、その平等性が欠かれるようなことは、一切もあってはならないことだ。
これがただの理想であり、実現には途方もない時間と、あらゆる意識改変と、全てを包む平和が存在しなければいけないということは、承知の上である。
けれども私は、信じることにしている。信じることくらいしか、できないのだ。
(以下、ネタバレあり)
ドラマ『スロウトレイン』には、属性の違う人間が多く登場した。独身を貫く女性、(ここでは敢えてこう記すが)異性愛者の日本人女性・韓国人男性、同性愛者の男性。
彼らの全てが、作中では全く平等に扱われており、それが当たり前なのだという前提のもとで物語は進んだ。
その空気感は、私の理想とするそれそのものだった。
視聴者の知り得ないその柔和な世界の中で、主人公たちは各々の人生を歩んでゆく。彼らの真髄の部分は、きっとまだ私たちには理解しきれていない。
自分のその、理解できていないところというのを、菜箸でちょいちょいと突かれているような。
そういうところに視聴後に気付いた自分を、心底恥じた。自分の描く理想を、自分が心中に抱けていないことを。
今後もきっと、私は不完全なままだ。
それは私の望まないことで、改善されるべきことだ。
いかにして改善してゆくのか。
『スロウトレイン』の視聴後から、そのようなことばかりを考えている。
私と世界が理想に辿り着くのは、いつになるのか。