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関心領域 感想及びこれから観る人に向けて

 先行上映にて関心領域を観てきたので、その感想。
 記事の性質上、ネタバレを含みます。情報を一切入れたくない方は気をつけてください。あるいは「これから観る人に向けて」の部分だけ読んでもらえたら大丈夫。
 作品のあらすじはこう。

空は青く、誰もが笑顔で、子供たちの楽しげな声が聴こえてくる。そして、窓から見える壁の向こうでは大きな建物から黒い煙があがっている。時は 1945 年、アウシュビッツ収容所の所長ルドルフ・ヘス(クリスティアン・フリーデル)とその妻ヘドウィグ(ザンドラ・ヒュラー)ら家族は、収容所の隣で幸せに暮らしていた。スクリーンに映し出されるのは、どこにでもある穏やかな日常。しかし、壁ひとつ隔てたアウシュビッツ収容所の存在が、音、建物からあがる煙、家族の交わす何気ない会話や視線、そして気配から着実に伝わってくる。壁を隔てたふたつの世界にどんな違いがあるのか?平和に暮らす家族と彼らにはどんな違いがあるのか?そして、あなたと彼らとの違いは?

公式サイト

 正直、本作のストーリーラインについてのみ話すのなら、これ以上でもこれ以下でもないです。いや、もちろん私の不勉強や理解不足などがあり、作中の意図を掴み切れていない部分は多々あるんですが、大筋としては本当にそれだけの話。
 ただ戦時下、アウシュヴィッツ強制収容所の隣で、当時のドイツ人としてはありふれていたのだろう価値観を持った家族が、ありきたりに日々を過ごしていく。それだけ。断言するとさすがに「いやそれだけって言い切るのもなんか違うな……」という気持ちになるというか、もう1〜2本話の軸があるにはあるんですが、そのへんについてはマジでよく理解できていないので……。



これから観る人に向けて

 手っ取り早く、まずはここの結論から述べていきましょう。
 今現在のウクライナやガザなどの情勢に思うところがありつつ、意識的にしろ無意識的にしろ、無関心やノータッチの態度を選んでいる人にとっては苦しい映画だと思います。自分のその態度に罪悪感を抱いているのであればなおさら。
 自身のその姿勢をこそ断じて欲しい、刺されたい、という人には向いているかも。あるいは、どういう形にせよ、関心を露わにして、自分に出来ることを既に行っている人。
 私はつらかったです。

 また、高校時点で習ったものや映像記録・ドキュメンタリー等々から得ているナチ及びアウシュヴィッツ強制収容所に関する知識だけでいくとわからない部分が多々あるのではないかと思います。私は結構……わからなかった。舐めプすんませんでした。
 なので、より深く没頭したいならある程度予習したほうが良いかも。
 ただまあ、この映画は物語を理解させるところには重点を置いていないように思えるので、予習の内容も内容ですし、無理に事前知識入れていかなくても問題はないんじゃないかな。

 本作はその内容……というか作り的に、興味があるなら劇場で観るのが一番良いと思います。たぶん配信だとこの映画の衝撃が半減くらいしてしまいそう。でも、それくらいのほうが心臓には優しいのかも……。


感想

 今こういう状況下にある世界で、こういう映像作品が世に出ることに大きな意味があるのだと、非常に強く感じました。
 陳腐な言葉ではありますが、それでもやはり思わずにはいられなかったです。
 警鐘、あるいはそんなところはもうとっくに飛び越えて、いっそ皮肉なのかもしれない。そういう意味で、私はグサグサ刺さった。つらかった。
 「関心領域」という言葉は、日本語においては医学用語のようですが、今作においては恐らくそうではなく、本当に文字通り「関心を抱く領域」を指して使っているんじゃないでしょうか。ていうか原題zone of interestですしね。
 米アカデミーでは作品賞を始めとした計5部門にノミネートされているんですが、音響賞にもノミネートされており、それはもう、さもありなん。

 映画冒頭、地上波だったら放送事故だろ!! みたいな時間が流れます。暗闇だけがスクリーンに映されて、何か重い金属が風を切っている音なのか、工場か何かの稼働音なのか、正体のよくわからない音が数分間延々響く。そこに微かな小鳥の囀りが混じって、だんだんその声が大きくなっていき、絵に描いたようなのどかな家族団欒のワンシーンが映し出される。
 描かれる家族たちは、随所で当時ならではの価値観を覗かせつつ、どこにでもありそうな平凡で幸福な日々を過ごしていきます。他と違うのは、隣の収容所から遠く響いてくる銃声、悲鳴、怒声、そして絶え間なく流れる煙。それだけ。ただそれだけ。
 一家はそれに気を留める様子もありません。だってそんなものは日常だから。そんなものを気に留めたところで、彼女らの日々がより良くなることも特別変わったりすることもないから。あやす人がそばにいるとわかっている赤ちゃんの泣き声と同じ。慣れてさえしまえば、そんなものは彼女らの関心の領域の外側の出来事。
 慣れるんです。一家と同じように、観客である私たちも。
 戦車が出入りする門構えを画面の端に見たとき、銃声が聞こえたとき、煙が流れ始めたとき、静かに静かに進行し始める事態に確かに私たちは慄いていたはずなのに、それが「当たり前」になるにつれ、慣れる。一家の平凡な日常とともに描写されるそれに、退屈だとさえ思い始める。
 実際私の居た劇場では、上映中寝ている人がいました。それくらい、退屈な人にとっては退屈な場面だったんでしょう。
 でも今思い起こすと、その姿が酷くショックというか、あまりにも制作陣の想定内であろう姿で、眩暈のする気持ちになる。
 寝ている人が悪いのではありません。ただこの映画は、「目の前で惨劇が起こっているとわかっていても、退屈でありふれた日常の中に身を置けば、その悲鳴がどれだけ耳に届いていたところで何も聞こえていないのと一緒だ」と突き付けてくる。
 そして寝ている人の姿は、まさにこの映画が浮き彫りにしようとしている態度そのものに思えてならなかった。

 映画なんて退屈にしようと思えばいくらでもそう出来るのだから、少し意地の悪い姿勢だと思う人もいるかもしれません。
 でも、そんな意地悪さと目の前の惨劇に部外者として慣れてしまう残酷さを目の当たりにしたとき、後者のほうが私にはつらかった。

 作中、ショッキングだったり差別的だったりする場面がいくつかあります。改めてこの題材に向き合うことの苦しさを思い出しました。まつわる負のエネルギーのようなものが果てしなく強い。
 でもこの映画の言いたいことを言うなら、たぶんアウシュヴィッツを取り扱う必要はきっとなかったんじゃないかなと思います。いやもちろん、この題材だから出来ること、表現したこと、そして何より重く響くものはたくさんあるので、必然性がないとまで思っているわけではないのですが……。
 そういう普遍性、繰り返されている悲しい歴史を、確かに感じました。

 映画のラスト、エンドロール直前、恐らく冒頭のものと同じ音声が流れます。真っ暗闇に、ただ音だけが響き続ける。
 でもそれはもう正体のよくわからない音では決してない。
 明確に、それは今まさに虐げられている人の悲鳴で、私が無関心であろうと努めているものの声で、その態度を強く責め立てられているようでした。
 それが怖くて、つらかったです。


あなたと彼らとの違いは?

 わかっています。ありません。何も変わらない。何一つ。
 私は生活から、例えばマクドナルド、例えばスターバックス、例えばAmazonを切り離すことが、できないです。
 しない理由はいくらでも書き連ねられます。恥を晒したくはないのでしませんが、でもこの先も、たぶんしない。
 でも、じゃあ、何ができるんだろう。
 考えないといけないんですよね。いけないんです。

 私のそういう関心領域を、突き付けてくる作品でした。


 映画「関心領域」は5/24(金)より全国ロードショー。
 全面的におすすめはしづらいのですが、今この映画を見ることには間違いなく意味があるでしょう。
 気になる方はぜひ劇場へ。

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