過去。

私の過去の記憶には父親と母親に洗脳されていた頃の記憶が沢山溢れている。今の言葉で言えば毒親だったのだろう、と思う。

幼い頃から父親からはよく体罰と言葉の暴力を受けていた。当たり前のように包丁を向けられて「死にたいのなら、今ここで死ね!」と壁に追い詰められたり、お風呂に入る時間が少し遅れると外に追い出され、ひび割れたゴツゴツとしたアスファルトの上で正座をさせられて「そんなにお風呂に入りたくないなら家に入ってくるな」と頭からバケツに入った水をかけられた。

父親と母親はよく喧嘩をしていた。私はよく母親を庇っていた。案の定、私自身にも飛び火して泣きじゃくる母親と一緒に砂利の上で正座しながら父親の機嫌が直るのを待っていた。母親は実家に逃げるようになった。私もよく連れて行かれた。母親は祖母に父親の悪口を余す事なく祖母に話し、私に同意を求めた。母親は父親のことを祖母に話す時に、父親の名前でもなくお父さんでもなくパパでもなくあなた、でもなく「アレ」と呼んでいた。ひとりの人間に対しての言葉ではなかった。

高校3年生の時、将来何をしたいかと問われ、「デザイナーになりたい」「デザイナーが出来なければクリエイティブな仕事をしたい」と答えると「デザイナーを目指すなんて無理だ」「接客業もクリエイティブな仕事もお前には無理だ」「事務職に就け」「お前は商業系に進んでもらう」「専門学校なんかには行かせない」「お前はこの大学にお前は行け」私は高校は普通科だった。ただ他の普通科の子たちと比べると少し商業系の資格を持っていて知識があるだけだった。独学でワードエクセルパワーポイントを覚えて、簿記も勉強した。普通科に商業系の授業はなかったがワープロ検定一級を取得した。スピード検定は10分で1200文字程度。当時高校のトップクラスの記録は2000文字を超えていて、超えられるようになったのはかな入力が普及し始めてそれに目をつけた学校があったからみたいだ。私はかな入力は覚えられなくて結局高校記録には到底追いつかなかった。

AO入試で、2学期にはもう合格していて、残りの高校3年生の時間はバイトと車の免許取得に時間を費やした。卒業式の頃には上京の貯金もできて、車の免許も取って、クラスの成績優秀賞を貰って、翌日には18年間住んできた地元からすぐに引っ越した。

大学入学してすぐに私はいじめにあった。大学に来てまでいじめられるのか、と自分の運の無さと情け無さに悲しくなった。移動授業が班ごとに割り振られていて、私だけ連絡が来ないのだ。当然、教室の場所が違って出席できなかった。金銭面に関して、私に「なんで奨学金も貰って、親2人とも働いてるのにバイトしてるの?貰えばいいじゃん。うち片親だけどいえばお小遣いも貰えるし服も買ってくれるよ?」と言ってきた子がいじめの主犯格だった。「実家が電車で片道1時間半だから中々帰れなくて寂しいの、お母さんに週一も会えない」とも私に言ってきた。私は帰りたくなかったが、飛行機片道1時間、片道の金額2万円程、船だと片道15時間で金額は1万2千円程の離島だったので「大変だね」としか返せなかった。彼女はまさにマウント女子だった。

そして興味のない大学に入った私は授業が兎にも角にも楽しくなかった。興味がなさ過ぎて。単位取得のためだけにただただ通った。ギリギリまでサボった。知り合いの先輩なんておらず、授業の組み方もめちゃくちゃだった。一年通っていたのが奇跡だった。後期の授業が始まる直前、私はバイトに向かう途中で自損事故を起こして車を一台廃車にした。これが初の人生の大きな分岐点だった。

父親と祖父からの叱咤激怒の嵐。残ったのは病院に行けなくて正式に診断されていない鞭打ちの後遺症。事故連絡直後の父親からのメッセージには「事故った車の写真を送れ」だった。

忘れもしない小雨の降る日。身体が痛くて病院に行きたいと伝えると「噂になるから行くな」「恥」「お金がかかるから行くなら自分で行け」と言われた。後から任意保険で全部お金が出るし通院手当も出るし鞭打ちで保険適用整骨院に行って治療として手続きすれば一時金もおりて寧ろお金が入ってくることを知った。あの時に病院に行けていればもうすぐ8年経つ今も左半身の不自由と偏頭痛は軽かったかもしれない。もう、過程の話としてしか話せない。

3日後くらいのこと。父親から車をまた新しく購入したからそれに乗って大学に行け、だった。お金がかかるから病院行くな、じゃなかったのか不思議だった。なにより、左半身が痺れて引き攣って視点は定まらなくて道路が二つ見えて事故のショックで車が怖くてそれでも逆らえずに乗って私は大学に通った。

気がつくと1年生が終わっていた。単位はそこそこ。2つ落としていた。1つは全く授業に行かなかった韓国語の講義。理由は1回目で先生が鬱陶しかったから。1つは英語。英語はとにかく苦手だった。

その頃の日記やノート類は全て処分したが、毎日死にたい辛い苦しい殺してという言葉がただただひたすら連ねられていてまるで自ら呪っているようだったのははっきり覚えている。マイページ真っ黒くインクが滲んで文字も重なっていた。私の心はもうボロボロだった。

その年の春休み、バイトばかりに時間を費やした。そして私は外側だけ形を保っていた外側すら壊れてしまった。大学を辞めたい、と両親に伝えていた。もちろん否定されていた。でも、行きたい理由も、行く興味も、価値も、何も見出せないでいて、更に行けばいじめられてひとりで、授業の教室すら知らない時さえあった。それも伝えていた。でも無駄だった。毎日のように父親と電話で喧嘩をして、泣いていた。
そんな時に、バイト先で「無理な時は無理って言っていいんだよ」と言われてそのまま私は泣き崩れた。初めて誰かに許してもらえたことがあたたかくて優しいものだと知った。

辞める決意が固まった。今まで一方的に父親と私は言い合いをしていたのを、ちゃんと話し合いをした。すぐ辞めることは結局できずに取り敢えず間をとって休学することになった。父親は頭が冷えたらまた大学に行くと思ったらしい。私は辞めることを前提に休学を決めていた。母親は辞めることに対して反対せず私の意見を汲んで弟の大学の入学式の日に私の休学届の面談とサインをしに付き添ってくれた。半年後、私はやはり大学を辞めた。辞める時も母親がサインをしてくれた。父親には「親不孝者」「お前はもうお終いだ」「底のない海にいる」「どうせ生きていけない」沢山の言葉をもらった。その時の私はもう父親に対しての感情は無に等しかった。

その後の私はバイトを転々とした。ただ、その頃からパニック障害のようなものが付き纏い出した。フラッシュバックもおまけのように。

フリーターとして社会にポンっと出てしまった。一般常識なんて無いし、企業の面接もどうしていいかわからず右往左往しながら取り敢えずやってみたい仕事にバイトで飛び込んでみようと動いた。結果的には殆ど接客業だった。事務職も受けたがまあ、落ちる。当然だ。経験も資格も大したものを持っていないのだから。

ダメ元で受けたら受かったアパレル定員になった。最初はただただ楽しかった。けれど、慣れるにつれ仕事を断れない日々が続き始めた。
気がつけば私には同じ普通のアルバイトなのに3人分程度の業務が接客と同時進行するのが当たり前になっていた。
休みの日は資料を作り、休憩時間は片付かない業務をし、余った時間は社員向け中途採用試験の勉強。気がつけば立場が社員の次に権限を持つような状態になっていて他のアルバイトさんたちがヘルプを私に求めてくるようになっていた。業務過多でヘルプを出したいのは私の方だった。
同系列店から特殊な項目の商品のマニュアル不明点についてのヘルプが来た時は店長も社員も私に投げる状態になっていた。他店の店長に対してアルバイトの私が指示を出す、なんて滑稽な状態なのだろうと思った。
気がつけば私がわからないと思う点は全て本社に連絡して問い合わせをしたりと、これは私がするべきことなのか?という疑問が出てき始めていた。仕舞いには本社勤務の担当者に名前を覚えて頂いていた。直接お叱りを受けることもあったが、逆にお褒めの言葉を頂くこともあった。挫けかけたこともあっあが、ここあたりまでは順調、だった。異変が起こったのは2年目にあたる10月頃だった。

10月頃から私は少しずつ顧客の顔を覚えられなくなってきていた。メモを取ってもケアレスミスが増えてきて、更には人員不足に加えてさらに仕事が増えていた。ベテランの先輩たちが次々に辞めて行った矢先のことだった。私は出勤直後に倒れたのだ。扁桃腺が腫れ、高熱と栄養不足に水分不足で痙攣を起こし私は病院に運ばれていた。声はほぼ出なくて、採血も貧血を起こして中々できず、点滴に繋がれていた。

CRP値がとんでもないことになっていた。3日点滴通院をし、2週間の安静を指示された。病院の看護師さんに「頑張り過ぎたんですね」って言われて泣きそうになった。

体力も回復し、いざ出勤して仕事に復帰して異変に気がついた。呼吸が苦しい。気がつくと、苦しさと不安で泣いていた。すぐに裏方に行きますと社員に告げて私は蹲って泣いた。副店長が、落ち着いたら帰宅するよう促してくれた。
これが、始まりだった。

記憶力の低下がどんどん進み、ケアレスミスもさらに増え、動悸が酷くなり、ついに仕事に行こうとすると涙が止まらなくなった。仕事に行くのが怖くてたまらなかった。以前のように動けない自分自身に自己嫌悪して、周りに迷惑をかけるのがとても辛くて、余計に泣いた。上司の紹介でメンタルヘルスクリニックに行くことになった。その時は仕事からのストレスの一時的なものだと診断されていた。薬を処方されるも回復の見込みがなく、そのままその年の12月に私は退職することになった。

けれど、私の症状は回復するどころか悪化していった。仕事のストレスはきっかけに過ぎなかったのだ。原因は子供の頃からの積み重なったストレスとPMSだった。

メンタルヘルスクリニックに通い始めて、両親との関わりを極力避けた。そして、避けていた理由を伝え、私はうつと摂食障害、その他不安障害だと伝えると「気持ち悪い」と父親から言われた。分かっていた。理解されないことは。母親は嫌悪はせずとも私の方が更年期ツライとマウントを取ってきたので電話を切った。

長くなり過ぎたので省くことにする。現時点では父親と母親はそれぞれの実親の介護をしている。別居状態。そして私は父親と父方の祖父と関わることを辞めた。母親は時折連絡を取る。でも本当に稀にだ。母親自体にも完全に気を許せるわけではないからだ。

血の繋がった家族が今後どうなるかわからない今、私の家族は夫だけということになる。その夫すら、今私にとって過去に近づき始めている。私はひとりになるのかもしれない。ひとりにならないのであれば、消えることで救いを求めるかもしれない。


ただただ、わからない。

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