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「怒りの驚くべき目的」とNVCの要点、それを少しつかめたかもしれない
NVC(非暴力コミュニケーション)という手法があります。心理学者のマーシャル・ローゼンバーグ(1934-2015) が体系化した方法論で、まさにその名が示すように、暴力的ではない形で他者とのコミュニケーションを実施するための考え方や留意点を示しています。
私は小さい頃から「怒りっぽい」「すぐ切れる」とあちこちから非難され続け、長年それを克服するために様々なことに取り組んできました。その道のりにおいて発見したのがNVCで、「これは有益な方法ではないか」と感じてローゼンバーグ氏の書籍を何冊か読みこんだものの、なかなかそれ以上の取り組みには至りませんでした。
すこし脇道にそれますが、私が自らの精神的な問題に懸命に取り組んだ結果行き着いたのは、実の母親からの性的嫌がらせを含めたハラスメントであり、それを放置してきた父親からのディスカウントでした。それらは私の精神に大変な悪影響を与えていたことを自覚しました(過去記事もご覧ください:「毒親」の真実に向き合ったら起きたこと|女神テーミスの剣――高下義弘のnote)。
それらは私の精神的な不安定さの最大の要因であり、そこに直面したことで、私は意識の平和を大きく取り戻すことに成功しました。とはいえ、日常生活を送っていれば、カッとくる瞬間があるのは否めません。
■自分の信条を素直に明かしたら侮辱的に否定された
最近、こんなことがありました。私はある女性に対して自ら大切にしている信条を打ち明けました。するとその女性は、私の信条をはなから否定し、小馬鹿にしたようなコメントを返しました。さらには非常に失敬な態度をとりつつ、頭ごなしに否定するコメントを重ねてきました。私にとっては、「人からこれほどひどい対応をされたことは、少なくとも過去数年にわたり存在しなかった」というくらいのレベルの、ひどい反応でした。私の人生においても指折りのひどさです。
私は久々に強烈な怒りを感じ、彼女にどう攻撃してやろうかという残忍な思いが湧き上がってくるのを感じました。このままでは暴虐的な行動をしかねない自分を予期して恐怖した私は、慌ててそれらを打ち消すべく、必死になって感情を抑えつつ、まったく違う話題を振りました。すると、彼女はなにもなかったかのようにその話題に反応し、直前までの落ち着いた応対をし始めました。この女性のまるで多重人格者のような変化は、かなり異様な風景として印象に残っています。
その後も私はしばらくの間、彼女から投げかけられたひどい言動を忘れるべく、必死になって努力しました。それが実って、結局のところその女性に何をどう否定されたのか、具体的な言動の内容は忘れてしまいました。
一方で、先に述べたような異常な態度と、「とにかくひどいことを言われた」という事実に対するいやな感情だけは、克明に意識内に残ってしまいました。
後日、落ち着いた後に、「あのとき私は激しい怒りを自覚したが、NVCでいう『怒りの原因となった私自身のニーズ』は何だったのだろう」――と自分自身に問いかけることにしました。こうした種類の質問は日常生活ではあまり使わないためか、答えが出にくい時間をしばらく過ごしていましたが、1日~2日ほど経った頃でしょうか。何気なく仕事をしていた瞬間に、ふっと答えがわいて出てきました。
その答え――つまり私のニーズは、「わかってほしい」ということでした。実にシンプルです。私は、その女性に私の信条に理解し共感してほしかったのだ、ということです。
また、打ち明けた相手であるその女性は、私の信条を理解もせず、共感もしなかった「だけ」でした。彼女の自由意志です。その意思表示の態度が適切であったかどうかは別として、私の信条についてどう感じるか、どう考えるかは、彼女の自由です。これまた実にシンプルです。
思えば、そこそこ知り合って長い相手であっても、自分の真摯な開示を理解し共感してくれるかどうかはわかりません。どうやら私は彼女に対して「わかってくれるはず」という過度な期待を抱いてしまっていたようでした。言い換えると、自分が事前に意識下で抱いていた彼女への期待は、ある意味「私の幼稚で純すぎる期待」であり、単にそれがかなわなかっただけだったわけです。
自分の内側に存在していたニーズの全体像がわかった時、わだかまっていた感情がすっと腹に落ち着いていくような、不思議な感覚を得ました。
これはさらにその後、ふと思った感想ですが、おそらく、私の意識下には、過去何らかの理由で解消しきれなかったこれと同じようなネガティブ体験が強い記憶として刻まれていたのではないかと思います。そして今回の女性とのやりとりを通じて自分の深いニーズに気がついたため、直近の体験とセットで解消されたのではないかと思っています。
そうした思索を経た後に、驚くことに、私は彼女に対して、まったく意外な見解が内側から湧き上がってくるのがわかりました。
その意外な見解とは、「彼女は、鬱屈とした感情を自覚せぬ形で抱えている」というものです。次いで、「彼女は何らかの過去の経緯から、大きな劣等感を抱えており、それが私の発言で刺激されてしまった。それが突発的に表に出てきて、私にぶつけたのだ」という見解が思考の脇からやってきました。まさに「やってきた」という感覚です。これには驚きました。
この見解が正しいかどうかはわかりません。あくまで根拠なき私の推察です。しかし、もしこれが彼女の真実の姿であったとすれば、私は彼女に対してなおさら過度な期待を抱いていたと言えます。
■母親から擦り付けられた「他人が“悪い”(=自分の意に沿わない行動を示した)時、人は怒る」という前提知識
一連の経験を経た後、私はなんとはなしに、ローゼンバーグの著書『怒りの驚くべき目的』を見返してみました。すると、以前読んだけれどもまったく腑に落ちなかったフレーズが、「確かにそうだ」と腹落ちするように理解できたのです。そのフレーズを引用します。
刺激 が 私 たち の 怒り の 原因 では ない こと を 意識 し て いる こと が 必要 だ。 つまり、 人々 の 言動 だけで 私 たち が 怒る こと は ない、 という こと だ。 怒り の 原因 は、 相手 の 言動 に対する 私 たち の 評価 だ。 そして、 それ は ある 特定 の 種類 の 評価 だ。
私 たち の 多く にとって、 怒り の「 原因」 と「 トリガー または 刺激」 を 区別 する のは とても 難しい こと だ。 それ が 簡単 では ない のは、 主 に 罪悪感 を 使っ て 行動 さ せよ う と する 人々 によって 教育 さ れ て き た 可能性 が ある から だ。 人 を 操る 手段 として 罪悪感 を 利用 しよ う と する には、 その トリガー が 感情 を 生じ させる 原因 だ と 相手 に 勘違い さ せる 必要 が ある。 言い方 を 変える と、 もし あなた が 誰 か に対して 罪悪感 を 使い たい なら、 あなた の 痛み が 相手 の 行動 によって 引き起こさ れ て いる こと を 示す 方法 で コミュニケーション を する 必要 が ある。 つまり、 相手 の 行動 が「 単に あなた の 感情 の 刺激 で ある」 のでは なく、「 あなた の 感情 の 原因 に なっ て いる」 こと を 示す、 という こと だ。
あなた が 怒っ て いる とき、 そこ には 私 たち の だれ もが 学ん だ 言語 パターン の 影響 が ある こと、 そして その ため 多かれ 少なかれ 相手 が 邪悪 だ とか 悪い、 という 意識 が ある こと に 気づい て ほしい。 そうした 思考 こそ が 怒り の 原因 だ。
以上、引用部が多少長くなってしまいましたが、次に私が言いたいことを述べるために、必要な部分を記述しました。
冒頭で少し触れましたが、私は幼少期、実の母親からハラスメントを受け続けていました。その結果、私は意識下に「とにかくおまえが悪い」という思い込みを植え付けられてきたようでした。そしてそれは、以前にこのnote記事として書いたように、性的ハラスメントを伴うものでした。
私の母親は、私が小さい頃から、私に対して継続的に性的ハラスメントを行ってネガティブな心身体験を積ませた上で、母親に反抗する私を前に「切れるのはおまえが悪い」「おまえは怒りっぽい」などと主張し続けました。いわゆるダブルバインドです。このようなコミュニケーション様式を私に繰り返しぶつけることで、私の「正常な反応」を徹底的に押さえ込んできました。
しかし大人になった私は、もはやそれを見抜いた存在です。そしてその経験と照らし合わせるようにして、私は前述のある女性とのコミュニケーションをきっかけにして、私が長年統御に苦労してきた、猛烈な怒りの感情の根本原因の一つが見えてきたのです。結論から言えば、私の猛烈な怒りのパターンは、母親から注入され、私が外部(母親)から学習させられていたものでした。
先に引用したように、ローゼンバーグは「人を操る手段として罪悪感を利用しようとするには、そのトリガーが感情を生じさせる原因だと相手に勘違いさせる必要がある。」としています。この表現は具体性が少ないゆえにまったく飲み込めていなかったのですが、私は一連の経験をした後に、この意味をようやく理解できました。
この部分を私が意訳して表現するならば、次のようになります。
【存在不安の強い親はしばしば、自分のネガティブ感情を吐き出すはけ口、つまり、いじめの対象として、子どもを使う。とはいえ子どもも一人の人格なので反抗する。そこで、存在不安の強い親は、子どもを思い通りにコントロールするために、徹底的に子どもにハラスメントを加える。例えば、恐怖を与えるために怒鳴りつける。あるいは、(私が経験したように)性的なニュアンスを含むハラスメントを子ども本人が望まないのに繰り返すことで子どもの自尊心をくじく。さらには、ハラスメントをした結果として子どもがそれに反抗した場合に、「おまえはすぐに切れる、怒る、短気だ」と言い聞かせてダブルバインドを実施し、人間が本来持っている正常な自己感覚を封じ込める。
ダブルバインドの実態としては、子どもを(さも正当に思える理由をかざしながら)猛烈な勢いで叱りつける、ということがよくある。この時、親は暗に、子どもに対して次のようなメッセージを示しつつ、意識下に擦り付ける。
「私が怒っているのは、おまえのせいだ。おまえが悪いからだ。怒りというのは、他人が悪いことをしたときに感じる自然な感情だ。私は悪いことをしたおまえに思い知らせて行動を正すために、私の怒りをおまえにぶつけていい。だから私はおまえに対して怒るのだ」。
翻って考えると、親が子どもにダブルバインドを行使しているこの時、親の実態は本人の言動とはまったく異なっている。客観的に、かつ正確に言語化するとすれば、例えば次のようになるだろう。
「私(親)はおまえ(子ども)にハラスメントをした。しかしその実態と不条理さと人権侵害を、被害者であるおまえに把握されたくない。ましてやそのほかの他人に報告されたくもない。私が罪を負うことになるからだ。そこで、私はおまえに嘘を教えこむ。その嘘とは次のようなものだ。
――実態としては、おまえ(子ども)は、私(親)の意に反することをしているだけで、それが正しいか間違っているか、善か悪かは関係ない。一方で、私はおまえを自在にあやつり屈服させたい。そこで、『私の意に反していること』は『悪いこと』なのだと、おまえの意識下にインプットしてやろう。こうしておけば、私はおまえをうまくコントロールできるからだ。そして、おまえをコンロトールするためのトリガーとして、私は「猛烈な勢いで怒ること」を使う。これにより、私はおまえに恐怖を与えつつ、おまえをうまくコントロールできるからだ。
私は猛烈に怒る。私が怒っているのは、おまえが悪いからだ。これにより、おまえは「私は怒る」というトリガーを通じて、おまえが私の意に沿わない行動を示したときに、おまえを私の意のままに操ることができる。そう、たとえ、私がおまえに対して不当なハラスメントをしていたとしてもだ――
こうした間違ったインプットを意識下に繰り返し注入された子どもは、実にひどい勘違いする。その勘違いとは、大きく2つある。1つは、「自分が怒られるのは、自分が悪いからだ」(先にも述べたように、実は相手の意に反することをしただけで、その「相手の意」が本当に正しいか、本当に善であるかは不明である)。
勘違いのもう1つは、そこから学習された「Bという人物がAという人物の意に反することをした場合、AはBに対して怒るものなのだ」という行動パターンである。こちらは言い換えれば、「人はそういうものなのである」という外形的な知識に基づく、意識下に植え込まれた行動パターンである。つまり、決して人が生来的に備えている本能的なパターンではなく、外からやってくる誤った教育である。】
いかがでしょうか。少し長い説明になってしまいましたが、私は実体験をもとに、このようにローゼンバーグの記述を理解することができました。
先の話に戻って当てはめると、私はある女性から「自分の意に反する反応」を示されました。その結果、私は(心の中では)猛烈に怒り狂ったわけですが、それはどうやら、母親から繰り返しインプットされた「偽りの行動パターン」だったと言えます。まさにローゼンバーグが述べたように、「あなたが怒っているとき、そこには私たちのだれもが学んだ言語パターンの影響がある」わけです(ローゼンバーグが記述した「言語パターン」とは、誰かから「こういうときに人は怒るものだ」と教えられること、という意味だと推察します)。
また、私は後から、私の信条をばかにした女性との対話の記憶を遡りながら、「確かに、ローゼンバーグが指摘するように、本来、人々の言動だけで私たちが怒ることはないのだろうな」という感覚を確かなものにしつつあります。
彼女は、私の信条を否定する言動をしました。その言動および態度は私の期待にかなり反しており、私は「失望」しました。
翻って当時の私がその瞬間に経験した怒りは、ちゃんと捉え直してみれば「偽りの怒り」でした。そして、偽りの怒りの裏にあった私の本当の感情は、怒りではなく失望だったようです。
それは決して怒鳴り散らして表現するものではないでしょう。失望の気持ちを彼女に対して言明するか、あるいは、失望の度合いが高いのであれば、彼女の前からただ立ち去るのみです。
それは暴力ではありません。ある意味平和的な解決方法です。もう少し、若い頃にこの方法を知っておけば、私の人生はもっとスムーズな道だったかもしれません。
この記事が、自らの怒りに戸惑っている方々に届きましたら幸いです。
■おしらせ:瞑想講座を提供しています
私は過去20年にわたる様々な自己探求を通じて、自分の中にある劣等感と存在不安を見つめ、それを自らヒーリングしていくことに取り組んできました。いろいろな方法がありますが、私自身の経験からは、有効性が高く、かつほとんどコストも掛からない方法の一つとして、瞑想をよくおすすめしています。
瞑想は心身ともに健康度を高めるエビデンスが取得されており、また「メタ認知」と呼ぶ、自己を客観的に捉える能力を高める効果があります。これは、自らの劣等感と存在不安を解消するのに大いに役立ちます。
東京・池袋にて体験会を開催するほか、個別のご相談に応じて1on1でも瞑想講座を提供しています。ぜひ、下記のWebページも含めてご覧いただきまして、お気軽にお問い合わせください。
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