見出し画像

暴言は物理的な暴力にも等しい:「突然キレる」は自分のせいなのか?

私は若い頃、しばしば、他人の暴言・嫌味を受け、我慢に我慢を重ねた結果、突然「第二の自分」が、いつもの自分を乗っ取ったかのような状態になっていました。

そうした状態のとき、私は不意に、かつ突発的に、自分から手を挙げたり、相手に物を投げたりして怒りを示してしまうことがままありました。言い訳のように聞こえるかもしれませんが、本当に「普段の自分」が意識空間の脇に追いやられ、まったく違う「もうひとりの自分」が暴言を吐いたり暴れたりするのです。

その際の雰囲気としては次のようなものです。私という「本当の自分」が肉体から分離され、本当の自分は、肉体を乗っ取っている暴れ狂う私――コントロールできない「もうひとりの自分」を、脇で「やばい、おれ、一体何をやっているんだ!?」とあきらめ顔で観察している……そんな様子です。

当然のことですが、そうした「私の事情」を、相手に説明するゆとりなどはありません。

仮に、相手がいわゆるハラッサー体質で、一般的に言っても「さすがにそれは言い過ぎでしょう」という酷い言葉を私に投げかけたとしても、こちらから手を挙げてしまうと当然、それ自体が形ある暴力になってしまい、それをもって社会的に罰せられることになります。私は若かりし頃、何度かそうした行為によって相手に深く謝罪することにもなりました。

もちろん、過去のそれらのうかつな行為について、私は心から深く反省しているのですが、一方で、次のような疑問ばかりが残っていました。

「私はなぜかいつも、蟻地獄のように同じようなパターンにはまってしまう。その背後にあるものは一体何だろうか?」

20代の後半、このとてつもなくモヤモヤした疑問が自分の中に沸き立ってから、私は20年以上にわたり、この「第二の自分が、自分の意識を乗っ取ってしまう現象」の根本解決に向けて、必死になって努力を重ねてきました。そのために私が投じた時間的・金銭的投資は莫大なものがあります。おそらく直接的な金銭としては1000万円はくだらないでしょう。

40代の終わりになってようやく、これだけの投資に見合った成果が得られました。

■不思議なことに、トラブルを起こすパターンは、まるで同じだった

先に、若かりし頃の私は、「同じようなパターンにはまって最終的には相手に暴言・暴力を振るってしまう」ということに気がついた、と申し上げました。「同じパターン」とは冒頭でも少し触れましたが、「私が悪いのだから仕方がない」と、じっと我慢しながら話を聞いている中、あるタイミングで、自分の意志に反するように「別人格」に乗っ取られて、突発的にキレてしまう、というものです。

さらに振り返ってみると、このような「別人格の登場」からさかのぼる少し前に、揉め事を起こす相手の人物との間で、言語化しにくいある一定のコミュニケーションパターンが存在していることが分かりました。そして、言語化できるほどには明確ではないものの、「これはなんとかして改善しなければ」という問題意識は強く持つようになります。しかしその問題意識を持ち続けながらも、輪郭が明確でないがために、その相手の人物とのコミュニケーションを(平静を保ったまま)しばらくの期間続けている、というのが通例です。

ただ問題は、そのような「言語化できない問題」をある程度自覚していながらも、改善策が思いつかないことです。その理由は先にも触れたように輪郭が明確でないがためです。そうしていつしか、その人物との間で揉め事に突入してしまうのです。次いで、先にも述べたような「私が悪いのだから仕方がない」と相手の言い分(たいてい、暴言や嫌みという姿をまとっています)を一方的に聞いている状況が生まれ、しばらくその状況を経験している間に私はキレてしまう――。このようなプロセスをたどってしまっていました。

これは毎回本当に同じパターンで、何度改善を試みても必ずと言っていいほど、途中での軌道修正に失敗してきました。

私は自分のこの「蟻地獄のようにはまってしまう同じようなパターン」の原因を、長年にわたり、あらゆる角度からしつこく追求し続けてきました。アンガーマネジメントなど、たくさんの怒りの解消法を勉強し実践してきたつもりでしたが、それでも失敗を繰り返してきました。また精神科の医師に相談し、CTスキャンなどで脳神経系も含めてチェックしてもらいながら、しばらくカウンセリングに通い続けたこともありました。

そんな探索の中で一つ、「なるほど」と腑に落ちたことがありました。

まず、前提として抑えるべきは、「物理的ではない言葉だけであっても、過度な暴言であれば、それは脳には物理的攻撃と同じようなダメージを与えうる」という医学面からの見解です。

■暴言は実際の物理的な暴力にも等しい

次の、友田明美氏による論文をご覧ください。

心理学ワールド 80号 罰 体罰や言葉での虐待が脳の発達に与える影響 | 日本心理学会 (psych.or.jp)

重要な部分を引用してみましょう。

言葉による虐待(暴言虐待)が脳に与えるダメージを見逃してはいけない。母親から「ゴミ」と呼ばれたり,「お前なんか生まれてこなければよかった」というような言葉を浴びせられたりするなど,物心ついたころから暴言による虐待を受けた被虐待者たちを集めて,脳を調べた結果,スピーチや言語,コミュニケーションに重要な役割を果たす,大脳皮質の側頭葉にある「聴覚野」の一部の容積が増加していた(Tomoda et al., 2011)。中でも左脳の聴覚野の一部である上側頭回灰白質の容積が平均14.1パーセントも増加していることがわかった。そして暴言の程度が深刻であるほど,影響は大きかった。暴言の程度をスコア化した評価法(parental verbal aggression scale)による検討では,同定された左上側頭回灰白質容積は母親( β =.54, p<.0001), 父親( β =.30, p<.02)の双方からの暴言の程度と正の関連を認めた。

心理学ワールド 80号 罰 体罰や言葉での虐待が脳の発達に与える影響 | 日本心理学会 (psych.or.jp)

聴覚野の肥大はどのような影響を及ぼすのでしょうか。ここが肥大すると、他者と対話する際に脳に通常以上の負荷がかかるようになり、言葉の理解力が落ちることがあるそうです。これにより人間関係を忌避する傾向が強まったり、さらには心因性難聴になって情緒不安定になったりと、多大な影響が及びます。

こちらの研究の調査対象は、幼少期に受けた暴言虐待にスコープを絞ったものです。大人同士のケースにその影響がそのまま当てはまるかどうかは不明です。ただ、普通に考えれば、「暴言が脳に負担をかける」という点においては、被害者が大人であっても同じと考えてよいでしょう。

つまり、相手が誰であっても、「言葉はパワーであり、その影響は多かれ少なかれある」ということです。

そして人は、窮地に陥れば、自分を守るべく反撃に出るものです。もし、おとなしい人物が、悪意ある人物の暴言虐待にさらされており、そのストレスがピークに達した場合、私のように「自己の脳がこれ以上傷ついて駄目になるのを防ぐため、本能が理性的な意識に対して『I Have Control.』を実行し、“反撃”に出る」という可能性も考えられないでしょうか? 次の「スワローポケット」の記事も参考になります。ぜひご覧ください。

決して私は、自己弁護に徹するつもりで、このような論を展開しているわけではありません。過去の事件ニュースを調べていくと、「虫も殺さないようなおとなしい夫が、度々続く妻の暴言に耐えかねたのか、ある日突発的に妻を殺害してしまった」というケースも存在しています。

こうした事件の詳細を知らないまま推察で述べることの問題を承知で述べます。もし、この夫婦において、従前に「暴言は、脳には物理的な暴力にも等しい影響を与える」という心理学・脳科学的知識が備わっていたならば、殺害という悲惨な事態に陥る前に、何らかの対処が行われていたかもしれません。

逆に言えば、暴言が及ぼす心理学・脳科学的な影響についての社会認知が進まない限り、今後も命がなくなり続けるおそれがある、ということです。

■母親からの性的ハラスメントによる影響

「暴言が大きな影響を及ぼしている」という認識をもちつつも、それでもまだ私の中では、モヤモヤしたものが残り続けていました。「そうはいっても暴言は外部の環境要件で、キレるという被説明変数に関わる説明変数の一つでしかない。もう一つくらい重要な説明変数がありそうだ」という感触を持っていたためです。

結果として行き着いたのが、幼少期の私という男性少年に向けて行われていた、母親からの一種の性的ハラスメントでした。おそらく極めて珍しいケースなのでしょうが、必死になって行った自己探求と、周囲の専門家の方々との度重なるやりとりを通じて、40代後半になってようやく行き着いた、私の中での一つの真実でした。次のnote記事もご参照ください。

頭の中に「自分ではない声」を作り出した、母親のハラスメントについて|女神テーミスの剣――高下義弘のnote

なぜ真実と言えるのかというと、「ああ、昔から何度も何度もやられていた、母親からの嫌な関わり方は、性的ハラスメントだったのか」という気づきを得た瞬間、それまで長年私を悩ませていた「私のことを責めるもう一つの声」がぱったりと消えたためです。本当に驚きました。この瞬間のことは鮮明な記憶として残っています。

一般的に言っても、少年(女児を含む)に対する性的なハラスメントは、被害者に猛烈な自己嫌悪感や無力感を据え付けるそうです。私の場合はそれらが、私を半世紀近く悩ませてきた「脳内で常に自分を批判する声」として現象化していたようなのです。

私は前述のような「キレ癖」とは別に、この「脳内の別人」をどうにかしたくて、長年、必死になって努力を続けてきました。そして先にも触れたように、40代後半――つい最近のことです――になって「かつて母親から仕掛け続けられていた嫌なことが、実は性的ハラスメントだった」という真実に明確に気がついた瞬間、ぱったりとその「脳内の別人による嫌な声」が消えたのです。

この「自分のことを批判する声」はおそらく、私が相手の暴言・嫌みに対する耐性が少なくすぐにキレてしまうという傾向に、少なからず影響していたことでしょう。

■キレ癖は、幼少期におけるハラスメント経験で養われたもの

一般的に言っても、ハラッサーの下にいると統合失調症に罹患しやすくなるとされています。私は40代後半まで一種の統合失調症的な状態(主には先にも触れたような、別人格が自分の意識内に住んでいるような状態ですね)に悩まされていました。振り返れば、母親のような四六時中一緒にいる人物から継続的にハラスメントを受けていたとしたら、子どもがそうなるのも当然であろうと思います。

こうした一連の見解について、「おまえの考えすぎだ」と批判する向きもあるかもしれません。しかし、以上のような構図の一部は、以前から複数のベテラン家族カウンセラーにより指摘されていた内容でもあります。これに対して、少し前までの私は、「そこまで自分の親はひどい人物ではないだろう」という甘い思いを持っており、話半分どころかほとんど受け入れていませんでした。

しかし、自分で改めて過去を探り、「自分を縛っているものは何なのか」をたぐり寄せていった時、私は、ほぼカウンセラーの皆さんが言うとおりの実態を再発見しました。

先にも触れたように、私は母親が性的ハラスメントを行っていたことに気が付いた瞬間、私は自分の内側に大きな変化を実感しました。それ以外にも、父親を含めた両親が私に対してどのようなハラスメントを行ってきたのかを自覚するたびに、なぜか体が軽くなったり、聴覚が鋭くなったり、目の前の景色が明るくなったり、また理由なく心のどこかで感じがちな絶望感や憂鬱感が薄まっていったりと、非常にわかりやすい内的変化があったのです。

つまりは、私の回復の度合いから逆算するように考えますと、私の両親は、かなり極端なハラッサーであったことを意味します。私にとって最も近しい人間である母親と父親が大変なるハラッサーであったことに気が付いたとき、私はとても深い悲しみを得て、また猛烈な憤怒に襲われましたが、その一方で「自分が抱えてきたネガティブな心のクセは、自分の生来の性質というわけでもなさそうだ」ということを実感し、深く癒やされた感覚もありました。

ハラッサーというのは大変に頭が良く、無意識のうちに下の立場の人間を使います。私の父親や母親がしつこく嫌がらせ――実の子どもに対してもです――を弱い立場の人間に実行してきた理由は、弱い立場の人間を使わざるを得ないほどに、心の内側に劣等感や存在不安を抱えていたためでしょう。実際、家族カウンセラーなど専門家に話を聞くと、ハラッサーは自分がコントロールしやすい人物を見つけると、一種の“脊髄反応”としてハラスメントを行うそうです。

ハラスメント行為を繰り返す人物は、それ以前の時点において、誰かまた権威者からハラスメントを受けていたと言われます。そのハラスメント行為によってなみなみと「心のコップ」に注がれたネガティブ感情を解消するべく、サディスト的な快楽が得られるハラスメント行為に至らせる、というわけです。

多少、話は脱線しますが、ここから考えると、私の父親・母親はおそらく祖父母にハラスメントを受けていたと考えられます。そう考えると先祖というのは敬うべきなのでしょうか? 先祖を敬うのは一般的にはとても良いことで、私はその大枠については否定しません。しかしそれを無条件にあらゆる家庭に適用するのは危険であり、個々の家庭で起きている人権侵害行為に蓋をしてしまう恐れがあると考えます。

■回復のベースには瞑想があった

さて、私がこのような一連の過去に気がつけた理由は何かと考えてみました。ベースにあるのは、瞑想習慣であろうと確信しています。

瞑想には医学的にもストレスを解消する、身体的な健康を改善するなど様々なメリットが証明されていますが、「メタ認知」と呼ばれる自己を客観視する力も伸ばすとされています。私は20代の終わりから瞑想習慣を続けてきましたが、約20年が経過した今から振り返ると、まさにこのメタ認知の力を養った結果として、私は父母からの(一種の)洗脳から脱し、自分のキレ癖の構造を明らかにすることができたのではないか、と思っています。

さて、ここからはお知らせになります。来る1月27日土曜日、私の仲間とともに、瞑想体験会&お話会「形而上学の夜&誰でもできる瞑想会」を開催します。

瞑想ファシリテーターによる丁寧なナビゲーションを通じて、より深い瞑想を実践していただきます。初心者の方には、慣れていなくても十分に深い瞑想を体験していただけますし、瞑想を日々実践しておられる経験者の方にも、より質の高い瞑想を体験していただくことが可能です。自信を持ってお送りします。

ご質問やお申し込みは、soulmate.tyo●gmail.com(左記の●をアットマークに変えてください)宛ての電子メールにて、お申し込みください。

なお、お申し込みの際には、下記の3点を添えていただけますとありがたく存じます。
1)お名前(個人が判別できれば大丈夫です)
2)緊急ご連絡先(当日、何かあった場合に連絡させていただきます。携帯電話番号が望ましいですが、電子メールなどですぐ対応できるとのことでしたらそちらでもかまいません)
3)27日土曜日の10時30分からの回、13時30分からの回、どちらに参加なさるか

お申し込みいただいた方に、会場の詳しいアクセス方法をお知らせいたします。

なお、参加費2000円(税込み)は、当日現金にてお持ちくださいませ。

なお、ここで扱います「形而上学」とは、学校などで学ぶ形而上学よりもさらに広い定義の形而上学です。具体的にはお話会にて説明いたしますが、目に見える物質世界(=形而下的な世界)の背後にあるものを捉えるための知識体系、と言えばよいでしょうか。

私ほか、今回皆さんをお出迎えするメンバーは、形而上学的な考え方を人生に取り入れたことにより、窮地を脱し、自分の人生を取り戻しつつある人たちばかりです。皆さんと、いろいろな体験談、そして有効な手法をシェアしていくことを、心より楽しみにしております。

なお、私が運営しております瞑想情報サイト「ActiveRest」もぜひご覧ください。こちらでも、瞑想体験会を随時開催しています。ぜひ下記をご覧の上、Facebookページに「いいね!」ご登録ください。1on1の瞑想セッションもご提供しておりますので、ご相談ください。

瞑想コミュニティ「ActiveRest」Facebookページ
瞑想情報サイト「ActiveRest」Webサイト

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?