【邪念走】第9回 愛の思念を投げる。
ランニング中、若い女性とよく目が合う。近年のランニングブームに少なからず関心があるのだろう。それとも中年男性がちょっと無理したスポーティーな格好で走っていることが奇異に映るのか。目が合うのは一瞬だが、明らかに見られている。いずれにせよ悪い気はしない。
同じ室内ですらあまり目が合わない妻に、ランニング中に若い女性とたびたび目が合うので、男としての魅力が増したのかもしらんと話したところ、「あなたが凝視してるだけでしょ」と一蹴。そう言われてみるとなるほど思い当たる節しかなく、私の男性的魅力増強説は一瞬で瓦解した。
心理学用語である「防衛機制」の種類の一つに「投影」という言葉がある。
「防衛機制」とは、自己を守るために無意識的に起こる防衛メカニズムのことで、不快な感情や認めたくない状況にさらされたときに、心理的に安定した状態を保つために発生する心理的な作用のことである。通常は無意識のうちに発生するため、本人が防衛規制が作動していることに気付かないことが多い。
「投影」は十数種類ある防衛機制の一つで、自分が思っている社会的に望ましくない、受け入れがたい不快な感情を、他人が持っていることにしようとする防衛規制である。
例えば、私は専門学校の講師なので毎日数コマの講義をする。講義中、とある学生を見て「ああ、この子可愛いなあ、タイプだなあ」と、思うとする。しかしそんなことばかり考えていると講義に集中できない。ましてや私は教員である! 学生に好意を抱くなど言語道断! そもそもそれ以前に私は父親である! 妻子持つ身で他者に惚れ込むなど冷淡無情!
しかし私も一介の男性。どうしても「キミが好き」という自分の中で受け入れがたい心理が発生する。受け入れられない、でも受け入れたい。この「キミが好き」という気持ちを何とか処理したい。
そしてそんな自分を守るため、心理的に安定した状態を保つため、「キミが好き」という気持ちを相手に投げるのである。
そうするとアラフシギ。その学生と目が合うと、「私が学生を見ている」のではなく、「学生が私を見ている」という風になるのである。あの学生、講義中だというのに、さっきから俺を見つめてやがる。もしかして俺のことを好きなのかしらん。不純だなあ。しょうがないなあ。と、講義中なので教壇に立つ講師を見るのは当たり前だが、「キミが好き」という気持ちを相手に投げているので、彼女が私を「見る」のではなく「見つめている」と認識するのだ。
そして見つめられながら私は思う。うーん、まんざらでもない。この「まんざらでもない」というのは一番自尊心が保たれるポジションである。俺のこと好きなの? 妻子あるのでそういう関係は無理だけど、まあ好きになるだけなら構わんよ。さ、じゃあ次のページ読んでみて。と、講義開始直後は年甲斐もなく若い子を見てドキドキしていた愚かな中年が、秘技「投影」発動により、数分後には大人の余裕を漂わすジェントルマンになっている。
自分で好きだと言えないから、相手が好きだと思い込む。そうやって心の帳尻を合わせて更に優越感にまで浸る。そんな都合が良すぎる防衛機制が「投影」である。自分の「影」を相手に「投」げるのだ。
ある女の子を好きになった途端に、その女の子とやたら目が合うようになり、俺が好きになる前にすでにアイツが俺のこと好きだったんじゃね? 俺、その好意に気付かなかっただけじゃね? 俺、鈍感じゃね? そしてハッピーじゃね? と、自意識過剰な青少年時代に誰もが経験するアレである。そしてそういう青少年時代に感じるアレが今でも消失せずに感じ続けているハッピーなオレである。
つまり、ランニング中、自発的に若い女性を視線で追っているだけなのだ。しかし健全なる精神は健全なる身体に宿るはずなので、そういうヨコシマなことは考えてはならぬと自制がかかり、「若い女性を見つめたい」という欲望は若い女性に投影され、「若い女性から見つめられる」に変化するのだ。
そういえば、と思い当たる節がある。女性は女性といっても俺のことを見ているのは若い女性だけで、ババアは俺のことにまるで関心がないようだ。なぜか。「投影」から紐解くと答えは簡単。
単に俺がババアを見てないからである。
私はたぶん普段から若い女性を見たいという欲望があるのだろう。しかしいつもは風采が上がらぬただの中年男性のため、女性を見ることに後ろめたさがある。あまり見てると変態とか言われる危険性もある。
しかし、そんな後ろめたさを払拭する行動がランニングである。煩悩を捨て、ただ己が健康、己が限界のために走り続けるという態度を取りながら、スポーツマンを装いながら、健全な精神と身体を隠れ蓑に、すれ違う女性を覗き見しているのだ。なんという非道。なんというランニングへの冒涜。本当の極悪人とはランニング中に女性をチラ見する者をいうのではないだろうか。
ランニングを通して女性を見る権利を得た、もしくは女性から見られる可能性を得たと勘違いしているのだ。スポーツは人を強くするというのは、きっとこういうことなのだろう。スポーツマンのあの自信満々の押しつけがましさは、この投影に基づく勘違いに理由があるのかもしれない。自己の願望を込めた思念を投げ、その思念が声援として返ってきて願望成就の後押しをするのだ。
と、ふと気付く。妻とは室内ですら目が合わないことに。こんなに愛してるのに。キッチンに立つ妻の後ろ姿を静かに、そして熱く見つめる。
「なに見てんのよ」
お、愛の思念が届いた。