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ファミレスを享受した話
2年位前に配信されたゲーム、『ファミレスを享受せよ』を今日初めてプレイした。勉強するときにランダムでbgmをかけてたら洒落た曲が聴こえてきたのでその元を探してたらこのゲームに辿り着いた、という感じ。
プレイ時間は長くても2時間でエンディングを迎えられると思うので、割とサクサク進められるかと思う。そして無料です。
操作は簡単で、クリックだけだった。ただほとんど説明もなくゲームが始まるので最初はちょっと戸惑ったけど。
タイトルも変わってる。ファミレスは私は現実でもほとんど行かない場所だけど、その空間にはたくさんのお客さんがいて、他愛のない会話を楽しんでいる。その一人一人に人生がある。ゲーム内の舞台である「ムーンパレス」でも、人と人との何気ない会話が実は存在の意味を問う重要な要素として描かれている。ただ話を聞くだけなんだけど、bgmと雰囲気も相まって私もそのムーンパレスにいるかのようである。
「享受せよ」という言葉も、ただのゲームとして楽しむこと以上の意味が含まれていると思った。登場人物との対話の中で見えてくる彼らの人物像を、深く味わうことができる。
ゲーム内の人物たちが交わす何気ない会話や、時折垣間見せる内省的なセリフは、プレイヤーに対して「自分自身は何を求め、どのように生きるべきか」という問いかけを投げかけている。ただ物語を追うだけではなく、その対話に自らの経験や感情を重ね合わせながら、内面の探求を始めるように促されているようだ。こうした体験はゲームとしてのエンターテイメントを超え、一種の哲学的な対話として成立してると言える。
私が特に気になったのは、ガラスパンである。まず名前が特徴的。他の人もそうなんだけど現実ではまずあり得ない名前だよね。だからこそあの世界観に没入できたのかもしれない。さて、そんな彼女には友達「ラテラ」がいたという。プレイヤーがムーンパレスにやってくるずっと前にいなくなった、というので実際に存在したかどうかは最後まで分からなかった。
ノーマルエンドを終えた後クレジットで「実は存在しないラテラ」ということを知る。他にもクレジットでさらっと衝撃的な事実をいくつも知ることになるので、俄然トゥルーエンドも見たくなったのである。さて、そのラテラの正体だが、ガラスパンの空想上、あるいは幻想の存在であることが後に分かった。
存在しないはずの友達が現れるというのは、まぁ要するにイマジナリーフレンドであるが、ガラスパン自身の心の一部を具現化したものかもしれない。自己の中で抑圧されている感情や、失われた過去、取り戻せない何かを補完しようとする心理的な作用の表れとも解釈できるだろう。なぜラテラという存在が彼女の中で生まれたのかまでは描かれていないが、一つわかるのは悠久の時を過ごすには孤独を許容できなかったんだということ。ガラスパンは一番最初にムーンパレスに来たようだし、次の人が来るまでの時間1人だったから。もう1人は部屋から出てこないし。
またこうした設定は、現実と幻想、存在と非存在の境界が曖昧であるという哲学的な問いを投げかけている。ゲーム全体としても日常の中に潜む非日常や内省的な対話をテーマにしているような感じがするので、ラテラの存在は精神的・象徴的な実在性に焦点を当てているとも考えられる。つまり、ガラスパンが「友達」と呼んでいたラテラは、彼女自身の心の中で意味づけられ、実際の人物としての存在を超えた何か……例えば、慰めや自己認識の一部を表しているのかもしれない。
クラインから頼まれた、王さまの記憶を消すために薬を飲ませてほしいというもの。実はその薬をもう既に飲んでいる人がいたというのもあのクレジットで知って思わず二度見した。
記憶は単なるデータの羅列ではなく、我々の過去と現在、未来を繋ぐもの、自己認識の根幹をなすもの。もし現実に、薬を飲むことで自らの記憶を消去し改変できるとしたら、その可能性は魅力的に映るかもしれない。苦痛やトラウマを避けるため、「不可逆的な精神状態」に陥る前に利用するなら、一時的な救済や新たな自分への再出発が期待できるんだろう。
でも同時に、記憶は我々がどのような過程を経て今の自分になったか、その軌跡そのものである。記憶を消したり改変するという行為には、過去の失敗や悲しみだけでなくそこから得た成長や学び、さらには自分を形成してきた経験そのものを失うリスクを孕んでいる。つまり自己という全体像を根本から揺るがす行為になりかねないということ。
それに、自分が自分という記憶を消したとしても記録は残っている。記憶を消す前の自分を知っている人達の記憶までは消せないし、自分のいた世界自体が変化するわけじゃない。
もしそんな薬が実際にあったとしたら、私は戸惑うことなく飲むだろうか。でも、それはきっと最終手段になるのだろう。苦しみを取り除くと同時に大切な自分の一部をも消してしまう可能性があるのなら、その選択は単なる逃避ではなく、自己の存在意義や過去との和解という重いテーマに直結することになるだろう。
このゲームは誰か一人が主人公というわけではなく、一人一人に物語があることを教えてくれた。プレイヤーはそれぞれの過去の記憶を覗くことができたから、真相に辿り着くことができた。相手の本当の人物像を知ることができた。でも現実では他者の記憶に直接アクセスすることはできないし、どこまでも主観的になってしまう。
真実がいかに個々人の経験や解釈に依存しているか。我々はやはり他者との対話や共感を通じて、部分的かつ相対的な真相に辿り着くことしかなく、完全に客観的な真相に到達することは難しい。各人の「内なる物語」は独自のもので、他者の記憶を直接確認する手段がなければ、言葉に頼るしかない。
もし私がムーンパレスのような永遠ともいえる場所にい続けるとしたら。外からの刺激がないのでまず内面の思考に没入するしかないだろう。もし他にも人がいるんだとしたら、何万年も一緒にいられるんだろうか。
あのムーンパレスにいた人達は一見穏やかに過ごしているような感じには見えたけれど、現実的に考えると時間の概念が崩壊した状態では自我を保てなくなりそう。絶え間なく続く内省は自己対話へと没頭させ、現実との乖離を生むかもしれない。無限に続く内面世界に閉じ込められてしまうと、精神が耐えかねてしまうかもしれない。
トゥルーエンド後に主人公とガラスパンはムーンパレスでの記憶を保持したまま日常へと戻ったわけだけど、よくあんな正気でいられるものだと、すこし感心した。やっぱり、他者との感情の共有や対話が心の均衡を保たせていたのかな。会話って大事なんだね。
私も深夜のファミレス行こうかな。