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数歩先へ行くために(3)

レンヌ、フランスのホテルにて

ブリュッセルとロンドン公演の合間に2年ぶりにパリに立ち寄る。
やはり居心地がいい。勝手が判るからというわけではなく、単純にこの街は自分にとって居心地がいいのだ。特に大きな変化も感じさせないこの街は変わらず、少し不便である。しかし、不便さの中に人を感じることができるのも確かである。日本にいれば、不便さをとことん便利にするためのシステムを追求していく、それは時折、人間不在の場のように感じずにはいられない。

今回、パリでゆっくりと考えておきたいことがあった。
「これから何を作っていくのか、そして何の深淵を覗きたいのか」
そして、これからも「“Live dangerously ”〜人生を危険にさらせ」とニーチェの言葉にあるように不可能と感じるものに挑むことが今の自分にできるのか。

これまでに振付作品はもちろんのこと、インスタレーション、平面作品など多くの作品を2009年より数多く製作を行ってきた。
「陰翳礼讃シリーズ」「Fata Morganaシリーズ」「空気の風景シリーズ」と3つのシリーズによって発展されてきた。2009年の創作が始まった当初から、振付家としてもアーティストとしても、作品を見れば誰のものなのか判るようなアイコンすなわち、独自のアートフォーム(表現形態)を確立しなければ、どこかのタイミングで行き詰まりを感じると思い、試行錯誤を試みてきた。「陰翳礼讃シリーズ」では光と闇にフォーカスをあて、「陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に沿うように陰翳を利用する」という谷崎潤一郎の陰翳礼讃の言葉を紐解きながら、創作がスタートし、「Fata Morganaシリーズ」では「光と闇の狭間にある蜃気楼のような曖昧な領域」についての創作が続いていく。この自身の中に芽吹く世界への疑問符を日本、ドイツ、イスラエルと異なる文化と風土の土地に身を置くことで、そこに隠された普遍性とは何なのかという問いを創作の中で探ってきた。

そしてパリにて、Nacela Berazaとの仕事と西田哲学との出会いにより、「事物と事物が分かれる以前の根源的場所性である”あわい”という領域」に着目し、これまでの2つのシリーズの集大成となる「空気の風景シリーズ」への創作が行われていった。3年の月日をかけ、身体操作法を構築することで私が主宰を務めたCie PIERRE MIROIRの数々の作品へと発展するに至った。

【PIERRE MIROIR創作コンセプト】
舞台芸術において演者と観客の間には常に一つの境界線が存在している。それは主観と客観が双方において存在しており、演者が行う行為を観客が観るという一方向性によって起きる現象である。劇場という空間に存在するこの境界線をどのようにして取払い、演者と観客、現実と非現実、そして主観と客観を渾然一体な場として提示できるか。それは新しい振付手法を用いることで劇場空間内に視覚的に認識できないものを表出させることにより、「感じる空間」をデザインすることが制作意図である。
 この新しい振付作品の動機として、日本語の「FURERU」という言葉をテーマにしている。「FURERU」という言葉は日本語で「震れる」「振れる」「触れる」の意味を持つ。しかし、古語である大和ことばにおいて、ある時期までは発音においても活用においても同一の言葉として使われていた。そして、日本語の「いのち」の語源は「息(い)の勢(ち)」であり、根源的生命力としての呼吸は震動現象であることがいえる。いのちあるものはすべて呼吸(震動)するものであり、呼吸(震動)するものはすべてにいのちがあるという生命観ないし、宇宙観。こうした「信仰」は無機物・有機物を含めたあらゆるものに精霊の働きをみるアニミズムと言えばそれまでだが、今回の作品では「FURERU」という言葉が内包する震動現象に着目することで、視覚的に認識することのできない空気の流れや物質の震動を感覚的に感じ取ることの出来る「空気の風景」を空間に形成することを目的としている。
 そして、それを表出させる為には振付、音楽、舞台美術、照明にいたる舞台上に存在するあらゆる物のパーソナリティーを極力排除することでダンサーは自身の呼吸(震動)だけではなく、空間に存在するあらゆる呼吸(震動)と共震し、調和を生み出すことを試みることが重要である。そうすることで、物質の根源や人間の根源が立ち現れるのである。現代の世の中で個性を重要視する風潮があるが、個性というものはこの世に存在する限り、隠しようのないものであり、消すことは不可能である。それをあえて、排除することを試みることで個性の根源であるヒューマニティーを表出させ、人間の「あるがままの姿/Human instalation」を生み出すことが可能となる。これらの「空気の風景」と「あるがままの姿/Human instalation」が調和することで見るという行為から感じるという行為へメタモルフォーゼし、劇場空間を「感じる空間」へと変容させることを目的としている。

これらの3つの創作シリーズは月灯りの移動劇場をはじめとする現在の自身の創作の骨幹となっていることは言うまでもない。しかし、PIERRE MIROIRとして製作された「空気の風景シリーズ」とはあくまでも実験的な領域を超えることができなかった作品群であるのではないだろうかと現在は考えている。これまでの創作の集大成となる形を模索するためにパリに在住する文化人類学の研究者でもある堤氏と意見を交換しながら、新たな研究領域を探ることが今回の大きな滞在目的でもあった。


追記
パリを発った数日後にはノートルダム大聖堂が大火災を起こす。
普段は観光地ということで、あまり行くこともしなかった場所。しかし、時折、パリに来た時の初心を思い出したいときには必ずといっていいほど、ノートルダム大聖堂とサクレクール寺院を訪れ、この街で何をしたかったのかを思い出す場所でもあった。今回の滞在中に訪れた時はミサが行われており、少女たちのミサ曲を聴きながらバラ窓を眺め、パリという街で見つけることのできた「空気の風景」という自身の創作テーマを改めて考えていた。
 そして、当たり前の風景とは「心」なのだろうと今回の件で改めて考えさせられた。家族同様、失ったときに初めて、その損失の重みを感じ、虚無感に覆われる。フランス人が今回失った「パリの心」を思うと居た堪れない気持ちになる。しかし、数年後にはきっと、美しいノートルダム大聖堂がもう一度観れることを願って。