『武道論 これからの心身の構え』をよんで
今回、私たちのグループで読んだ本は『武道論 これからの心身の構え』です。
長い間、武道をやっていたのもあり、共感できるところがあったりといろいろ面白かったです。
この本を読みながら思ったことを載せていこうと思います。
この両面を持つことで、社会的にする必要があることについて政治的正しさとそれの責任を実際に受けるという間で物事を見ることができる。そういうので、自分が嫌なことを他人にしないといったことが成立するのだろう。現在教育研究部で『学問としての教育学』という本を読んでいる。この中に自由の相互承認という、自分の自由のためには相手の自由も尊重しなければならず、まずは、お互い自由を求める存在であることを認めることが大切だという内容がある。まさにそのようなことが書かれているので、個人的にそうだよなとなった。立ち位置がそもそもそうであるため、公共と相性が抜群にいいのだろう。最近、地域と学校というのがよく出てくるのにも納得がいく。
今思い返すと空手をやっているとき、部分的に鍛えたことはなかった。稽古は基本的に毎回決まった通りに行うだけだった。それを繰り返していくうちに体が覚え、気づいたら強くなっていた。空手においてだが、そもそもどこかに力を込めて当てようというようなことはしなかった。拳で突くと決めたら体全体がそれに向かって自動的に連携して動くというものだった。これがおそらく人間の中に起源を持たないということなんだろう。
これが武道が目指すものだと書かれている。稽古も最初はぎこちない状態でする。繰り返すうちに動けるようになっていく。そうやって体で覚えたことを外に出していく。やっていた時は全く意識していなかったが、こうやって読んで改めて考えることで道というのが何なのかが少しわかってきた気がする。
稽古の話になるが、さっきも書いたように稽古でやることは基本的にルーティーン化されている。ルーティン化の効果として、違いにすぐ気づけるというものがある。これに加えて禍々しいものを押し戻すことによる体の調いで自身の成長が感じやすくなっているのかもしれない。すべてが無敵へとつながっていくところに道という部分が出ていると読み進めれば進めるほど驚かされる。
これはあえてだが、この本自体が残心だったりするので、本を読み進めること自体が稽古だなと感じ面白いと思ったという感想を残したい。ぜひ読んで体験してみてほしい。話は変わるが、所長の話も様々なものを見ることによってなるほどとなるので道というのはそういうことかとなることがある。
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