指先
とりとめのない話をここに綴る.
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風が強い午後だった.
その人は意外にも静かに息を引き取った.
彼が眠れなかった夜を思い出す.
今日とは裏腹で,それは賑やかなものだった.
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その夜,彼はもう2時間も3時間も叫び続けていた.
「背中が痒いよ!!!」
壁をどんどん叩きながら,助けを求め歩いている.
私はその背中を掻いたり冷やしたり塗り薬を塗ったり.
拭いたり擦ったりポンポン叩いたり.
挙句の果てには,ネットで「痒み 治め方」とか調べてみたりする.
あの手この手を尽くしてみたが,彼の痒みは治らない.
グーグル先生さえも,私たちに解決策を教えてくれない.
何をしても至らないと怒られる.
私は時々,「じゃあもう知らないよ」と諦めたくなる.
でもやっぱりそれじゃダメだよなーと思って,また歩み寄る.
この夜に限らず
私たちは日々そんなことを繰り返しながら時を重ねた.
笑ったり喜んだり,憤慨したり意気粗相としたり,意外と何も感じなかったり.
日光を求めて散歩をしたり,
お風呂に入るか入らないか長い時間議論したり,
髪を切って気分が上がったり.
そうやって過ごすのが,私たちの日常だった.
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今日は私が介護職として彼にできる,最後のケアを行う.
冷たく血色のない彼の指先に触れる.
一つ一つ,温かいタオルで丁寧に拭いていく.
だらんとしたその手は,心なしか彼が生きていた時よりずっしりと重みがある.
それは,彼がまだここにいることを私に感じさせる.
カミソリを使って髭を剃る.
慣れない作業のさなか,自分の中指をざっくり切った.
あぁ,と思った次の瞬間
私の指先から血が流れる.
患部を心臓より高くし,圧迫するが止まる気配は一向になく,どくどくどくと.
重力に逆らいなお溢れ出る血.
それは,私がここに生きていることを私に感じさせる.
彼は家族に囲まれている.
娘さんは今日居室に泊まって,彼一緒に晩酌するのだという.
満月の夜だった.
晩酌日和にもほどがある.こんな日を最期に日を選ぶあたり,彼はセンスがいい.
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彼の最期は,果たして,人に迷惑を掛けてどうしようもない最期だっただろうか.
彼は不幸せだったのだろうか.
施設に入ったら,認知症になったら,歩けなくなったら,
もうそれで人生終わりなのだろうか.
少なくとも彼は違ったのではないか.
家族に愛され,最期まで己を生きていたと,私の目にはそう映った.
だって,満月の夜に娘と呑むお酒は,どんなに高い酒より美味しいんじゃないか.
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生きるとか死ぬとか,誰かをケアするとかケアされるとか,人を好きな気持ちとか.
そういうことを,私たちはもっと自然に捉えていいんじゃないかと思う.
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ぼんやりしていると,帰る頃にはとっくに定時を過ぎていた.
満月が私の足元を照らす.
月を見上げて,
いいケアサービスワーカーになろうと思った.