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音楽と共に

今年はたくさんの音楽に触れた一年でした。
私は残念ながら何の楽器も弾けませんが、もし大人になって習う楽器が有るとしたら、そしてもし日本に住んでいたら...習っていたかも知れないと思う楽器があります。
それは三味線、それも津軽三味線。
関西で生まれ育った私が岩手にある看護短大に進学したきっかけは津軽三味線の音色でした。
高校生活も終わりのころ、たまたま付けていたテレビで盲目の少年が弾く津軽三味線のドキュメンタリーをやっていました。
高校卒業後、家を出るつもりでしたがなるべく遠くに行きたくてその時、導かれる様にそれが“東北”に有ると思いました。
縁もゆかりも無い東北。怖いもの知らずの当時の私は、他人からみたらどんなに突飛でも、逆に何も誰も知らない土地で生活してみたくなりました。この音色を生み出した土地に行きたいと思いました。この胸を打った音色が私を岩手へ運んでくれ、そしてその後東京での生活に結びつくご縁をもたらしてくれたのでした。
忙しくてとても三味線を習うことはできませんでしたが、津軽三味線というものを生み出した奥深い北東北の雰囲気を、十代の終わりから二十代にかけて感じることができ、そこに住むことができたことは深い感性のようなものを養ってくれたと思います。
青森で高橋竹山の最初のお弟子さんの西川洋子さんの津軽三味線を数回聴く機会に恵まれ、その演奏は今も心の深い所に残っています。その方にじっと見つめられて「なにか芸術をやっているの?」と尋ねられ、なにもやっていない、と答えると「そんな風な目をした人だと思ったのに...」と、意外そうに言ってくださった事がとても嬉しかった。もしアフリカへ行く夢が無ければ、この方のところへ弟子入りさせて貰いたい...と瞬間夢みたものです。
もちろんなにかを極めるのは生半可なことでは無理で「これしか無い!」と思い詰めるような情熱が無ければダメで。私にとってそれがアフリカへ行くことだったので、やはり津軽三味線は夢の中のものだなと思います。

我が家で練習を兼ねて曲を披露してくれた
猫がジッとギターの音色に耳を澄ませている姿が
音色と共に心に残った

音楽の都にほど近い所に長年暮らしてますが、先日、ギター奏者の友人を誘ってポール・ポッツさんのリサイタルに行って来ました。
ポッツ氏のことを知ったのは2009年ごろでしょうか、元夫に教えてもらったのがキッカケでした。もしも今も仲良く夫婦であれば一緒に行ったのだろうな、と思いました。友人を誘う前に元夫に声をかける事も試しに考えてみました。きっと喜んで一緒に行くことまで容易に想像できましたが、それは“やっぱり違う”と自分の中で違和感しかなかった。
もし夫婦仲が壊れてなかったら....は “あり得ないIF” であるのです。だからこのリサイタルのことは一言も話していません。
ポッツ氏のことを教えてくれた時はまだ新婚の頃で、そこからずっと時間が流れたということに、その時の重みに改めて戸惑ったのかも知れません。そんな感傷で一緒にリサイタルを聴きに行く間柄では無い。後で「友人と行ったのよ」とサラリと言う自分も想像しましたが、そんなことも言わず。“なにも言わない”を噛み締めてまた日々は流れていく、それをジッと見つめていようと思いました。

サインの時に感激を伝えることができました
「日本人なの?1月に日本に行ったよ」
と、実直で優しい雰囲気のポッツさん

ポッツ氏のリサイタルは素晴らしく、教会で聴く彼の歌声に心が浄化される様な瞬間がありました。オーディションで彗星のごとく現れ、男性版シンデレラストーリーを歩むことになったポール氏。その後も倦まず弛まず、真摯に音楽に向き合い続けて来られたことがその衰え知らずの深みのある歌声からよく分かりました。彼の歌声は技術を超えてなにか人の心を打つものが有ると思います。
びっくりしたことにドイツ語が堪能で、歌の合間にドイツ語の喋りで聴衆を笑せたりもありました。最後に、
「私の今は皆さん抜きには有り得なかった」と聴衆に向けて語ってくれました。

最後に、最近見つけたとても素敵な動画をよろしかったらどうぞご覧ください。
志村さんが津軽三味線を習って1年、56歳の時の映像でもう20年も前です。津軽三味線に正対するように弾く姿とその音が心に迫りました。
ラストはコント王、流石の一言!


志村けんが弾く「紙の舞 」を聴いて心が震えた
彼がもうこの世にいないからだろうか...
忙しいなか時間を見つけてコツコツと
ひとり練習する姿が浮かんだ
何事にも地道に向き合い芸も自身も高め続けた
稀代のコメディアン志村けん


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