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メンタル落ち込み君が考え抜いた原因と対策

はじめに

2024は自分のメンタルとめちゃくちゃ向き合った年だった。

9月ごろ、仕事に行こうとするも身体がベッドから動かず、これまでとは違う倦怠感・絶望感だったため心療内科を受診し、双極性障害2型と診断された。


双極性障害とは躁鬱とも呼ばれ、躁と鬱の波を繰り返す病気らしい。
自分の体感ではそれぞれ以下のような感じ。

:全能感、なんでもできる気がする、後先考えずに行動する、あまり寝なくてもバリバリ動ける
:何もやる気が起きない、ベッドの上で一番消費カロリーが低いネットサーフィンだけして1日が終わる、水中にいるかのように脳と身体が重い

双極性障害には1型と2型があり、自分は比較的症状が軽い2型。現在は薬を飲んでいるのもあり割と普通に過ごせる日が多い。

そんなこんなで3か月ほど休職期間を経て、暇だったので自分のメンタルとかなり向き合い、ああでも無いこうでも無いと試行錯誤して原因・対処法を自分なりに導き出した。(自分を被験体にして思考の実験をしているようで面白かった。)

今回は備忘録として、今の自分が考えているそれらを書き連ねていく。


メンタルが落ち込んだ原因

現状考えている原因は以下の3つ。

  1. 生来の自己肯定感の低さ

  2. 誤った目標設定

  3. 環境の大きな変化

それぞれについて詳細をまとめる。

生来の自己肯定感の低さ

これが一番大きい原因だと感じた。

自己肯定感と言うとかなり一般化されたワードで、ニュアンスがそぎ落とされる部分が多いため詳細に記すと、

自分自身の評価の判定基準がめちゃくちゃすぎる。

減点は超目の粗いザルで何でもスルスル通り抜けるくせに、
加点はSASUKEの2ndSTAGEクリアくらい難易度が高い。

例えば、カフェに行って以下のような出来事があったとする。

  • 列に並んでいるとジジイが列に割り込んでくる

    • 「並んでます」と伝えると怒りの喧騒でごにょごにょキレられる

  • レジでホットドッグを注文する

  • 間違えて小豆大福が提供されたが、作り直してもらうのも悪いので何も言わず受け取る

  • 満席で座れないため立って待つ

  • 席が空いたが、お年寄りが自分の後ろで待っていたため席をゆずる

  • やっと席に着いたが、隣の席がクチャラー

これまでの自分であれば、この中で加点になるものは一つもない。基本減点になり、良いことをしていたとしてもゼロになるだけで加点にはならない。

見知らぬジジイに理不尽にキレられた時、心の中では「なんだァ?テメェ…」と愚地独歩がキレ返していてジジイが100%悪いと思っているが、何度もそのシーンを反芻してしまいだんだん「自分が悪いところがあったんじゃないか…?」と思ってしまう。

立って席を待っている間も、あまり待っている感の圧を出すと座っている人に申し訳ないため、壁のシミとか見ながら自然と席を立つまで待つ。

また、「お年寄りに席を譲る」という一般的には善行とされることを実行したときも、「やるべきことをやっただけ」という体感で特に自分を褒めることは無い。

この通り、自己評価のそもそもの起点がマイナスになっているし、自分の影響範囲から外れている理不尽な不幸に対しても自分の責任だと抱え込んでしまい、どんどん減点だけが積み重なっていく状況だった。

この考え方では外出する度にストレスがサービス開始初期のペイペイポイントくらい蓄積され、心が疲労するのも当然だと思う。



ではなぜ自己評価が減点に偏ってしまうのか?
これは幼少期の親・兄から言われた否定の言葉が未だに精神のベースになっているからだと思った。

俺の家族構成は母・父(中1の時にフェードアウトした)・愚兄・俺・弟という、片親・男3人兄弟となっているが、愚兄とは年が近かったこともあり、よく比較されて母親や愚兄から叱責されていた。

「なぜ兄にはできてお前にはできない」
「お前は本当にぼーっとしていてダメなやつだ」

今でこそ、こう言った言葉にはひろゆきやホリエモンのように雄弁に反論できるが、幼いころは母親が絶対的に上位の存在で母親が言う事は真言のように揺るぎない事実であったから、僕の心のやらかい場所に奥深く突き刺さり、今でもまだ締め付ける。(イヤな夜空のムコウ)

このある種のトラウマのような「自分はダメな人間なんだ」という思い込みがかな~~~り厄介だった。高台のハンマーブロスくらい。

誤った目標設定

先ほどの幼少期の話にもつながるが、これまでの自分の生涯を通した目標は「愚兄よりも優れた人間になる」だった。

響きだけ聞くとジャンプ漫画の主人公みたいでいいけど、問題点はたくさんあった。

まず、何をもって優れた人間と評価されるかが不明瞭だ。
学歴で勝つために大学を卒業し、優しさで勝つためになるべく優しい人間であろうとし、近隣からの評価で勝つためになるべく大きい音を出さないように生活している。
が、社会的なモノサシでは優れた人間になれているかもしれないが、例えば愚兄の妻などからすると兄の方が優れた人間だろう。モノサシは主観なので。
そうなると、そもそも叶いようのない目標だった。


また、ネガティブな目標のため、前進する推進力が無い。
愚兄は傍若無人で跳梁跋扈で魑魅魍魎で百鬼夜行のような人間であったから、自分はそうはなるまいとなるべく慎ましく生きてきたが、結局「自分を周りに迷惑をかけない人」に育てるだけで、周りにポジティブな影響を与える人間にはなれない。

環境の大きな変化

24年の4月に上京・新職場で働き始めた。

新しい職場は優秀な人ばかりで、当時の自己肯定感の低さでは減点だけが高難易度のテトリスのようにすごいスピードで大量に積み重なっていった。あの画面を見ると動悸がする。

あと、東京は物価が高すぎて貧しくなったことで明らかに心の余裕が無くなった。これをきっかけに政府与党や一部野党が嫌いになり、今はTwitterのタイムラインに猫とNewJeansと自民党・立件民主党批判のツイートしかない。


もともと不安定だったメンタルに環境の変化が大きなトリガーとなり、メンタルの調子を大きく崩してしまった。

メンタルの平和を保つためのこれから

と、ここまで調子を崩した原因を書いたが、以降は対策を。

  1. 自分に優しくなる

  2. ポジティブな目標を立てる

  3. 気晴らしに積極的に勤しむ

自分に優しくなる

色んな本を読んだが、何よりもこれが大事だと思う。
何か良いことをしたなら自分を褒めるし、特に何もしなかった日もそれはそれで良いんだと受け入れる。
他人から褒められたら、その言葉の通り素直に受け止める。(「それってあなたの感想ですよね?」とか絶対思わない。)

これは色々なところで言われているんで耳にタコではあるが、実践するのは相当難しい。

それに、抽象的であまり実践のイメージが湧かないため、以下に自分的に納得感があると感じた表現をいくつか。

自分の人生の価値を評価するときに、「何か社会的にすごいことを実現しなければ評価されない」と考えてしまうときは、あなたがフィクションの作品の主人公の何に感動して評価をするのかを考えてみてほしい。
きっと、その主人公が健気に目標に向かって努力する姿であり、達成した実績ではないはずだ。(引用面倒だったので思い出しながら適当に書いた)

『人生の意味の哲学入門』

この文章に出会ってから、「結局何かを成し遂げるわけでもない人生に何の意味があるのか、そんな人生無意味ではないか」という思考が消え、健気に生きているだけで自分を肯定できるようになった。


自分に優しくするのが苦手な人は、他社に対して向けている優しさをそのまま自分に向けてあげればいいだけだ。(これも引用適当)

『自傷的自己愛の精神分析』

個人的にはこの考え方が一番わかりやすかった。
自己嫌悪に陥りそうなときは、「友人がその状況だったならば、どんな言葉をかけるか」と考えると励ましや慰めの言葉しか出てこない。それをそのまま自分に向けるだけ。


つま先立ちをしていると一瞬は高い景色が見えるが、かかとを地につけて立っている人よりも長くは立っていられない。
大股で歩くとしばらくは早く前に進めるが、すぐに疲れてしまって小股で歩き続ける人に追い抜かれる。
人生も無理をしすぎることなく、流れに逆らわず、ありのままの自分でいることが大切。(引用適当)

『老子』『荘子』

気を張りすぎず、「なんとかなるだろう」とある種適当に生きることを肯定してくれるような哲学で、読むと心が軽くなった。

こういった思想をベースに、とにかく自分に優しくなれるようにトライしていく。

ポジティブな目標を立てる

これまでの人生の目標は「愚兄よりも優れた人間になる」だったが、現時点でのこれからの目標は
「将来の自分の子供が他者に博愛の精神を持てるようになった姿を見る」に設定した。

ベースとなっているのは、仏教の「空即是色(くうそくぜしき)」という考え方。

「空即是色(くうそくぜしき)」は、仏教の教えの一つで、「この世に存在するすべてのもの(色)は、実体を持たず、空(くう)である」という意味です。
簡単に言うと
「色」:目に見えるものや形あるもの、現象を指します。
「空」:固定的な実体や本質がないことを意味します。
つまり、「私たちが目で見たり触れたりできるものも、本当は変化し続ける一時的なものであり、永遠不変なものではない」という考え方です。
これは、すべてのものが相互に依存し、関係性の中で存在していることを強調しています。したがって、執着を捨てることで心の平安を得る道を説いています。

ChatGPT

すべてのものが相互に依存している

他者=自分であると捉えることができる

他者に博愛の精神を持って接することで、循環して自分にも博愛が返ってくる

という風に解釈した。「自分が納得できる人生を送るために、他者に対して優しくなる。」逆にすることも可能で、「他者への優しさを自分にも等しく向ける。」

この考えを実践するにあたって、最終的に達成できているか評価する必要があると思っていて、自分を評価することは難しいため「将来の自分の子供」としている。

親が子供に与える影響は身をもって実感しているため、そんな「めちゃくちゃ影響を与えてしまう存在」がその精神を体現していたら、それは自分も体現できているのではないか、と考えた。

まずは彼女になってくれる人を探すことから…

趣味での気晴らしに積極的に勤しむ

これは『暇と退屈の倫理学』という本に書かれていた。以下に概要を整理する。

まず、人間は自由の刑に処されており、自由という手持ち無沙汰の状況から脱却するための退屈しのぎを探し続ける必要がある。
つまり、人生とは長い暇つぶしであり、退屈からの脱却である。
その脱却方法には以下のように3つのタイプがある。

  1. 社会的な大きな流れに乗り、情熱を注ぐこと

    1. 例:企業で働く

  2. 趣味や友人との交流などを通じて気晴らしをする

    1. 例:ライブイベントに参加する、映画を見る

  3. 1の大きな流れから脱却し、違う大きな流れに移動する

    1. 例:転職、居住地の変更など

これまでの自分は1の脱却方法をメインに据えていたが、問題だったのは「何を頑張るか」「なぜ頑張るか」を設定せずに盲目的に「頑張ってる感」を追ってしまっていたことだった。
実際に比較的ブラックな職場で毎日遅くまで働き、趣味の時間も取れずに没頭していると「頑張っている感」は出るのだが、達成すべき目標が定まっていないため、ある時に冷静になると「俺って何のためにこんな遅くまで働いてるんだっけ」とプツンと糸が途切れてしまう。

そして、その状況から脱するために3の脱却法を取り、あとは無限ループになってしまう。という状態になっていた。

この1を頑張るうえでの目標はまだ定まっていないが、とりあえずは1の仕事のウェイトを下げ、2の趣味等でしっかりと気晴らしをすることを目標にする。(いずれ1の目標設定は必ず必要になると思うけど)

そうなると以下に趣味を楽しむことができるかという話になるが、これが意外と難しい。
例えば同じライブフェスイベントに全く音楽を聴かない人と熱心な音楽オタクが参加したとして、対象のイベントの内容は同じでもそれぞれの「気晴らし度」は雲泥の差、天と地の差、ヒソカとトンパの差、月とすっぽんでしょう。
方向性としては、この雲側であり天側でありヒソカであり月になれるようになれば、気晴らしポイントがガッポガポというわけザンスね。

当面は「趣味から気晴らしポイント、たくさん稼いでいこう。」ということで、より音楽や映画を楽しめるように主体的に取り組んでいきたいでごわす。

最後に

暇な時期に色々と勉強したのでせっかくならアウトプットして残しておこうと思い立ち書いてみた。数年後、数十年後に読み返して今よりも成長した自分にフィットした哲学を手に入れることができていたらいいな。と願っているでガンス。

参考にした書籍

暇なときに読んで面白かった本を紹介するンゴね。
感想はスレッズにポツポツ載せているので、そちらをチェケラ。
threads

倫理学・心理学など

暇と退屈の倫理学 (新潮文庫)

「自傷的自己愛」の精神分析 (角川新書)


哲学エッセイ

急に具合が悪くなる

あした死ぬ幸福の王子

きみはなぜ生きているのか

自己啓発をやめて哲学をはじめよう

哲学書

自分とか、ないから。教養としての東洋哲学

史上最強の哲学入門

史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち

NHK「100分de名著」ブックス ニーチェ ツァラトゥストラ

NHK「100分de名著」ブックス フランクル 夜と霧

マンガ 老荘の思想

論語

論語と算盤(上) (自己修養篇(いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ13))

論語と算盤(下) (人生活学篇(いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ13))

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