「読む」について
私は栞を使わない。
私はよく本を読むのだが、随分前から栞をまったく使わなくなっている。理由は明確に覚えていない。というか、複合的であると思う。
まず、私が栞を持たなくなった原因は二つほど考えられる。一つ目は、当時使っていたブックカバーに栞の機能がついていたこと。革製のブックカバーで、表紙側折り込みの部分に逆コの字型の切り込みが入っており、その部分をページに挟み込むことができた。とても気に入っていたのだが使いすぎてボロボロになってしまい、泣く泣く引退させた代物である。それ以来、そもそもあまりブックカバーをかけなくなったように思う。かけても読み終わったら外してすぐに次の本にかけねばならず、一々面倒になってしまったというのもある。怠惰である。
二つ目は、私は新潮文庫を好んでよく読むということ。新潮文庫にはあらかじめ栞紐(スピンと呼ぶらしい)がついているのだ。だが、私はこれも今は使用していない。紐を挟むのすら面倒くさいのだ。どこまでも怠惰な性格である。
こうして私は栞を持たなくなっていった。そうしているうちに体感したメリットがある。栞を挟まないでおくと次に読み始めるとき確実に「読んだ記憶のあるところから」読み始めることになる。こうすると「読んだつもり」を防げるのだ。何となく目が滑っただけのところはもう一度読むことになるので、読んでいるうちに話がわからなくなってしまうという方にはオススメである。
そして、私には栞にまつわるもう一つの癖がある。稀に、人から譲り受けた本や図書館の本などに栞やそれ代わりの紙切れなどが挟まったままになっていることがある。そういうものを見つけたとき、私はそれをそっとそのままにしておくのだ。前に読んだ誰かが、この頁に栞を挟み込んだのだという事実をそのまま遺しておきたくて。誰かの記憶がそこに遺っているような気がして。その「時」をそのまま保存しておきたいと思ってしまうのだ。
私が大学生の頃に住んでいた町は本屋が多かった。普通の書店も、古本屋も。しかもそれらは何故か独特な品揃えをしていて店主の自慢の本棚なのだろうと思われたし、そんな本屋のある町に住んでいることはどこか誇らしくも思えた。そんな町で出会った本たちには色々なものが挟まれていた。例えば、新聞紙。本の内容に関連した記事の切り抜きのときもあれば、まったく関係ない「そこにあったから」というときもある。新聞だと挟まれた時代がわかるので面白い。あとは、メモ紙。昔の人はやっぱり字が上手いなぁなどと思いながら、全く知らない人の文字を見た。
私は「そのものの状態になるべく干渉したくない」という気持ちが強いのだと思う。というか、干渉すべきではない、みたいな感覚か。共有の場所や物などを使用した際はまるでそんな事実などなかったかのように元通りにしたいし、できれば私がそこにいた痕跡を残したくない。自分で書いた戯曲も、一度書き上げたらその後にああ未熟だったと感じても書き直すことが容易でない。一度手から離したらもうそれは、ひとつのものとして存在してしまって、私には干渉しえないと感じてしまうのだ。「そのものが、そうである姿で存在している」ということを考える、そういうことをずっと続けてきたからだろうか。
「そうであるもの」をどう読むか。私が読書や芝居をつくることが好きなのは、ここが面白いからだ。だからこそ、私は「そのものが、そうである」という状態をとても尊く思っているのだ。
フィクションには描かれていることすべてに意思がある(意図とは言っていない)が、現実はそうとは限らない。だが、フィクションを現実上で現実らしく再現しようとするとき(例えば読書をするときや芝居を作ろうとするとき)、我々は描かれた意図を想像して「読む」ことが必要になる。これはあくまでも「想像」であって、決して「共感」ではない。「作者の意図」なんてわかるはずがない。だってそれぞれ別の人間なのだから。わかるのは「自分がどう読んだか」ということだけである。
こういう石がある。ということと同じように、こういう一文が書かれている。という状態を「読んで」いく。そんな行為の積み重ねで、そこにある作品(=フィクション)を自分なりに現実上で再現していく。これが面白くて面白くて仕方がないのだ。きっと死ぬまでやめられないのだろう。
さて随分話題が逸れてきたところで最初の話題に戻って、私の現在の読書スタイルについて発表して今回は終わろうと思う。
まず、カバーは取る。
栞とブックカバーは使わない。
本がすっぽりと入るポーチに入れる(頁折れ防止)。
読み終わったらカバーを戻して、本棚にしまう。
おしまい
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