駅の中の、無意識の「作品」
見出しの写真は、駅の構内です。
工事か、修理か何かの時に、おそらくは、実用で書かれた数字や記号で、この役割が本当は何かも分かりませんが、時々、このように「作品」のように、(あくまで個人的には)カッコよく見えて、写真に撮ったりしています。
これは、自分がアート、特に現代アートに興味を持って、見るようになってから、そんな感覚になったというか、大げさにいえば世界の見え方が少し変わったようです。
特に大竹伸朗というアーティストの作品や見方に、かなり露骨に影響を受けているようで、ちょっと恥ずかしいのですが、たとえば、この本のタイトルの「既にそこにあるもの」は、すごく優れて、カッコいいタイトルだと思っていました。人の意図を離れたものの凄さ、みたいなものを表していると感じたからです。
それは、現代アートの流れの一つにあったと思うのですが、いかに人の意図ではない部分を作品に取り込むのか、といった要素があったと思います。
それは、アートの意味の飽和のあとに来たようなことだとも思うのですが、(このあたりは、それほど詳しくないので、いろいろ違っていたら、すみません)そんなような作品を見てきたせいもあって、こうした駅の構内の「無意識の作品」がよく見えてしまうようになったのだと思います。ただ、改めて、このあたりの経緯を考えると、何かに洗脳されているようなミーハー的な、カッコ悪さもあるような気もしてきます。
それでも、今も、こうした「無意識の作品」を見ると、自然に「いい」と思えてしまうので、これからも、そんなような感覚で世界を見続けるのかもしれません。
これも駅のホームから見える、たぶん駅ビルか何かの実用的なパイプであって、それをただ必要性だけで、こうした形になってしまったのでしょうけど、たとえば、雨の日や曇りの時など、やや空が暗い時に、とても「いい感じ」にみえたりします。
これは、ただ個人的な見方に過ぎず、大勢の方の賛意を得られるとは思いませんが、それでも、もし、毎日、同じようなことの繰り返し、と思っても、少しいつもとほんの少し違うところへ目を向けると、意外と面白いものがあるかもしれないと、思ったりもしています。
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