『21世紀の「大人」を考える』④『21世紀の「まともな大人」の基準を考える』。(中編)
精神年齢のことを改めて考え(リンクあり)、その上で「まともな大人はどこにいるのか?」も再確認しようとして、それで、前回から「21世紀のまともな大人の基準」(リンクあり)まで考えてきました。
もちろん、こうしたことに本当に新しいことを付け加えたりもできないし、未熟なのも当然なのですが、混乱し、下降している21世紀に、さらにコロナ禍で、本当に先が見えなくなったので、自分のためにも改めて考えようと思いました。
そして、前回の「21世紀のまともな大人の基準」について考えた時に、古代からも伝わる基準でもある「仁」や「慈愛」「愛」さらには、古典的な作品の中で「タフでなければ生けていけない。優しくなれなければ生きている意味がない」といったセリフなどを検討し、これからも、その基準は変わらないのではないか、という一応の結論は出ました。
どんな状況でも、必要な人に、適切に優しくなれる。
そんな人が、21世紀でも「まともな大人」では、ないだろうか。
ただ、これだけだと、やっぱり乱暴な結論だという感じもしたので、もう少しゆっくり考えていこうと思いました。
トータルな力
「まともな大人」を考えた時に、いろいろな要素を並べてみたくなる。
「柔軟であること」。これからさらに混迷しそうで、コロナ禍のことだけでなく、未知の状況が続く中で、この要素がなければ、おそらくは余裕がなくなり、もしくは適切な対応ができなくなることで、自分の安定性も保てなくなると思う。
「学び続けること」。ある時期に集中的に勉強したからといって、それが「貯金」としてずっと通用するのは難しい。あらゆる学問や情報は更新し続けるということもあるし、もしくは、その勉強が受験勉強だった場合には、あるはずの正解を探す、という思考になっていると、不確定要素が多いこれから先には、あまり役に立たない可能性もある。自分の無知を知り、学び続けることで、そうした過ちは避けられると思う。そして、人間が生き残ってきたのは、知性のためだと思われるので、その力を少しでも伸ばすことで、社会でもサバイバルできる可能性は高まるはずだ。向上心がある、ということでもある。
「過ちを認めて、謝れること」。今も言われているのかもしれないが、「あやまったら死ぬ病」という言葉があって、本当にそう見える人は今もいる。とても不自由に見える。もしかしたら、「まともな大人」であった時期もあったり、そのことで成功を手にした時もあるのかもしれない。「過ちを認めて、謝らないこと」によって、自分の何かを守っている気になっているのかもしれないが、それは、実は不自由なことだし、新たな「まともな大人」に更新する機会を逸している行為でもあるので、本人にとってもとてもマイナスなことだと思う。その上、柔軟性も失っていきそうだ。「過ちを認めて、謝れること」。それも、謝る相手に納得してもらえるよう、謝れるのは、知性も想像力も共感力も必要で、とても高度な行為でもあるから、これができる人は「まともな大人」でもあると思う。
「寛容であること」。これは、下手をすると偉そうな態度に思われることもあるのだけど、おそらくそう感じさせるのであれば、本当の意味で「寛容」でないのかもしれない。多様性を認める、といった言い方にも、人によっては、微妙に、偉そうなニュアンスは含まれているものの、「寛容であること」は、これから先はさらに重要になってくると思う。「寛容」である人は、くだらない差別には加担しないはずだ。21世紀の意識としてのグローバルな流れは、まだ続くはずだから、異文化と接する時に「寛容」であることがベースにないと無意識な差別をしがちだと思う。
「基本的に正直であること」。隠したり、疑ったりは必要な時もあるかもしれないが、基本的にはエネルギーを消耗しやすい。正直で、いろいろな自分を装ったりしないで済むほうが、精神的な疲れも少なそうだし、正直な人間の前では、自分も正直でいられて楽なことが多い。そうした人も「まともな大人」と思える。
「自由であること」。これまでにあげた要素を持っていれば、不必要なことをしなくてもすみそうで、気持ちが自由でいられる時間が増えるような気がする。自由であることは、柔軟でもあるし、正直でもある。正直な人と同じように、自由な人を前にすると、自分も自由でいられるような気がしてくる。
ここまでは、その本人が「まともな大人」であるために必要な要素という印象になる。そして、こうして本人が「まともな大人」であれば、余裕もあるだろうし、判断力も適切なので、「必要な人に、必要なだけ、優しくなれる」と思う。
だから、こうしたいろいろな要素を並べてみたけれど、「必要な時に、必要なだけ、優しくなれる人」は、こうした要素のすべてを持って自分を安定させた上で、人と関われるという能力に結びついて、初めて可能になりそうなので、こじつけととられるかもしれないが、やはり「まともな大人の基準の頂点」であり、一見すごさが分かりにくいが、トータルな力であることは変わりがないと、思う。
とても唐突な連想だけど、「サイボーグ009」という漫画(アニメ)があった。
これは、野球をヒントに、特徴がある9人のサイボーグが力を合わせる、といったストーリーといわれているが、主人公でもある「009」は、一番新しいサイボーグで、もっとも優れた「性能」だという設定になっている。
ただ、「001」から「008」まで、それぞれ突出した特徴があり、体からミサイルを発射したり、口から火を吹いたりするメンバーから比べると、「009」は一見地味であるが、すべての「性能」が高いため、そう見える、という設定だった。それ以来、「トータルな力」は、そういうものかもしれない、と考えてきたことも、思い出した。
経済力の話を避けていることについて
これは「一人前」と言う言葉を避けたことともつながるのだけど、「まともさ」を考える時に、どうしても、自分で生活できる経済力、という要素はからんでくる。そして、もちろんそうした経済力は、現代である以上は、必要なことでもある。
前提として、経済力、自分で稼げる力はあったほうがいい。
ただ、ここで改めて確認したいのは、経済力があることは手段であって、目的ではないということ。こうして、経済力がものすごく弱い人間が言うのは、自己弁護ととられても仕方がないし、説得力がないとは思いつつも、その原則は確認したい、と思う。
「まともな大人」であって経済力のある人も、もちろんいると思う。
同時に、経済力を目的として、まともさを気にかけない人もいるかもしれない。その究極は、詐欺のような犯罪で、そこまで進む人はごく少数であるが、せっかく、これからを生きるのであれば、「手段を選ばず」ではなく、まともな手段(法律を踏み越えなければOKでなく)をとって、誰かを傷つけたりしないで、それで経済力を増す方法を模索したほうがいいと思う。
こんなことを言っても、今、お金に困っているとしたら、きれいごとにすぎず、説得力はないかもしれない。私自身が、まともさも、経済力も十分ではない。どちらも備えた「まともな大人スペシャル」でない以上、伝わる力が弱いことも自覚している。
それでも、経済力の話を避けたのは、今は、新自由主義に思考まで影響を受けすぎて、経済的な弱者は切り捨てていい、とか、自己責任とか、下手をすれば、経済力がないと「劣った人」のように評価されるような言説の方が優勢で、そこをひっくり返す言葉を出せる能力は、まだないので、今回は、その要素をいったんはずして考えることにした。
弱々しい主張になってしまうが、「経済力」と「まともさ」は常に比例しないことは確認したい。
「人に優しくなれる人」が、たまたま「タフ」という手段を持たないために、心身の不調に追い込まれ、休養するしかない状態に追い込まれていたとしても、それは、その時に経済力がないのは事実としても、「まともではない」とか「人として劣っている」ということではない、と考えている。
「まともな大人」であっても、場合によっては「タフ」であっても、心身の不調に陥ることはありえる。それは、たまたま「まともな大人が調子を崩しているだけ」だと思う。
さらには、これは安直な言い方をしたら失礼なのだけど、病気など、いろいろな条件のために、本人の努力だけでは、どうしても稼ぐこと自体が難しい人がいる。そうした場合は、当然だけど、それだけで「劣っている」わけでも、「まともでない」わけでもないと思います。
「まともな社会」が目指すこと
まずは、その人が「まともな大人」かどうかは、その人のあり方で、考えていきたい。
そこを再確認し続けていかないと、病気になったり、もしくは、誰でも歳をとるから、もしも体が動かなくなった時に「切り捨てられる社会」が進んでいくだけだから、それは、こわくて悲しいことだと思う。そうした社会は「まともな社会」とはいえないのではないか。
そうならないためには、「まともな大人」が一人でも増えて、基準がまともに近づいていくことが、地味で平凡で頭が悪そうで、気が遠くなりそうな方法だけど、これから先、目指していくべきことではないか、と思っている。
病院での出来事
全くの個人的な事で、それも、何回かどこかで書いた記憶があるので、もしかしたら、また読むことになる人もいるかもしれず、それは申し訳ないのですが、それなりに歳をとってから、再び、「まともな大人」のことを、考えるようになったのは、個人的には不可欠な出来事がありました。
もう20年くらい前のことで、母親が急に心身ともに調子を崩し、何を話しているのか分からないような状況になり、いつも通っていた総合病院に2度目の入院をしたことがあった。その半年前にも、そんな状態になったので、精神科医にも何度も診察を希望したが、なぜか、それを避けられ、内科医だけが診察にあたり、母親の症状はよく分からないうちに2週間で改善して、退院になった。どうして、そうなったのかを医師に何度も尋ねても、「一人暮らしは避けてください」しか言わなかった。
何も分からないまま、母は、また意志の疎通ができないような状態になった。
あとから振り返れば、ずっと母がかかっていた内科医は、2度目の入院の時も、そんなにちゃんと検査もしていなかった。痴呆ですね、と繰り返すだけで、病院でも、とにかく困るんです、と診察室に患者の家族として呼ばれ、医師や看護師が四人くらいいて、囲まれるように、ただ責められ、転院を急かされた。
やっと病院が見つかり、いつ暴れるか分からない母親を、あまり慣れない運転で1時間以上かけて、妻と一緒にやっとの思いで、なんとか転院をした。途中で富士山がきれいに見えた。その移動に関しても、最初の病院は精神科医以外は、ほぼ何もしてくれず、クルマで出発する時に、手を振ってくれただけだった。あとで聞いたら、妻は、母が暴れたら死ぬかもしれない、と覚悟した、と言っていた。私も同様だった。
そして、精神科の専門病院の閉鎖病棟に、母親は入院することになった。
その病棟の中の、何もない個室にいることになった。私が、毎日のように通ったのは、これでよくなるとも思えなかったけれど、ずっと、ここにいて、何もない個室で一人で居続けるだけだと、まったくよくなる気もしなくて、感情も動かないまま、ただ機械のように、通った。無意味と思いつつも、行かなくなったら、完全に母親は戻って来れないのではないか、と思って、ただ通った。病院に着くたびに、重く湿った母の着衣がビニール袋に入って、閉ざされた個室の前に置いてあって、それを帰る時に持って帰り、洗って、また持ってくることを繰り返した。
その病院の担当医は、入院時に説明してもらった時に、もともと肝臓が悪いために母が飲んでいた薬を、やめることを強く言った。意味がないからと繰り返し、今の状況は不可逆ですから、と繰り返した。私は、原因が分からないうちは、変えないで欲しい、とお願いして、やっと、薬の継続が決まった。
人を信じる、みたいな気持ちが、たぶんなくなっていた。辛いはずのことも、あまり感じなくなっていたが、病院には片道2時間くらいはかけて、通っていた。
夏だった。電車だと、病院の最寄り駅までは、本数が少ない路線に乗らなくてはいけないので、実家にあるクルマも使った。ラジオから流れる明るい音楽を聴いて、クルマの窓の外の海水浴やサーフィンへ向かう人を見ると、別の世界に見えた。時々、バイパスでスピードをあげて、少しぼんやりするような時もあった。
こうした出来事の一つ一つが、自分が「まともな大人」について改めて考えるようになり、少しでも「まともな大人」になろうとした理由につながっていくのですが、まだ少し長くなるので、『21世紀の「まともな大人」の基準について考える』(後編)に続きます。
(他にもいろいろと書いています。読んでいただければ、うれしいです)。
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