ひまわりは、夏空を支えているような気がする
とても暑いときは、外を歩いていると、ちょっと嫌になる。
それも憂うつ、といった沈むような思いではなく、ただ、この場にいるのが嫌になるというような、体にこたえるのが強い夏の太陽の光だと思う。
もちろん、天気予報的には、梅雨入りしている状況だから、人間の定める基準では、まだ夏ではないとは分かっているけれど、35度ほどの気温の外にいると、体は夏だと感じている。
時々、街路樹や、ビルの方向によっては影ができて、それだけでちょっとホッとするようなとき、4車線の道路のそばに、ひまわりが咲いていた。
太陽に向かっている。
ひまわりは、まるで、夏空を支えているように力強く見えた。
立葵
花に対して、少し興味を持つようになると、この季節ではひまわりの他には立葵が気になるようになった。
立葵は、ひまわりのように茎が長く、しかも、その茎の下にある花から咲き始めて、だんだん上部の花が開いていく。それは、少し時間がかかるけれど、まるで花が上に迫り上がっていくように感じ、そして、その花の動きは、空を指しているように思える。
考えたら、不思議な花の咲き方で、花が咲く植物としては背の高い品種なので、梅雨が明ける頃に、その茎の最上部で花が咲く、というのは嫌でも視線が上に行く。
そうすると、空を見ることになる。
梅雨が明けるから、それは夏空のはずだ。
ひまわり
ひまわりの花は、花の名前を今よりもっと知らない時でも、知っていた。
夏の象徴のようにも思っていた。
花の形も、通常(という言い方も変だけど)イメージしている花のように、ちょっと柔らかそうで、色味もバリエーションがあって、というものとは違って、黄色で、大きくて、強い。
そんな印象だった。
こうして言葉にしても、ある種のわかりやすさがあって、そのシンプルな存在感が、夏にぴったりに思える。しかも、花というには、その真ん中の部分の印象が強く、あれが花の一部と言われてもピンとこないし、そのうちにそこにタネがぎっしりとできる姿にまでダイレクトにつながっている。
そんなふうに隠しどころがないような特色も夏の暑さの中では、逆にとてもふさわしいものとして思えてしまう。
夏空を支える
だから、私が暑いとき、他に何も考えられないような状況のとき、道端で見たひまわりは、なんだか頼れるようにみえ、そのスッと立っている姿が、夏空を支えているように見えたのは、ある意味当然のことかもしれない。
そして、その夏空は、梅雨明けに花を咲かせきると言われている立葵から、まるで引き継ぐような印象まである。
夏空を指し示す立葵が枯れる頃、太陽に向かうひまわりの季節になり、暑いときは、まるで夏空を支え続け、そして、徐々に秋が近づく頃には、その役割を終えるように、それまで堂々と背筋を伸ばしているように見えるひまわりは、一斉に首をうな垂れ始める。
そして秋に向かう。
そういう意味ではひまわりが夏の花、というのは、そしてそのイメージを一身に背負っている気がするのも当然のような気がする。
だから、これから梅雨があけ、本格的に暑くなり、もしかしたら去年よりも暑い夏になって、外出する時は、とても厳しい状況に置かれそうだけど、そんな時でも、スッと太陽に向かっているひまわりを見るときは、ちょっとその辛さを忘れさせてくれるのかもしれない。
道端で、真っ直ぐに立つひまわりには、そんなことまでイメージさせる力があったように思えた。
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