「職業」の「資格試験」のことを、素人だけど、考えてみる。
ずっと考えているわけではないけれど、何かのきっかけがあると、職業によって、その選抜方法と、育成のあり方を、完全に素人考えでもあるのだけど、ふと思うことがある。
天才外科医
医師免許を持たず、闇医者と呼ばれ、だけど、天才的な技術を持ち、法外な料金を請求するのだけど、通常は不可能とされる手術を成功させる。もしかしたら、もっと昔からその原型はあると思えるけれど、自分の記憶では、そのスタートは「ブラックジャック」だった。
その影響を受けた、というよりも、そのストーリーをヒントにしたことをキャストの名前でも暗示しているのだけど、この「Get Ready!」というドラマでも、その基本的な構造は同じだった。
仮面ドクターズと言われる「闇医者」のチームが、他の病院では、手術が不可能とされた患者のところに現れ、莫大な料金と引き換えだけではなく、その病気にかかった患者に対して「生き延びる価値はあるか」ということまで問うところが、新しさでもあるのだけど、その結果、その執刀医が手術を決意すると、必ず手術を成功させ、すでに余命宣告されていた、その患者は見事に復活する。
これはフィクションだけど、現実の世界でも「ゴッドハンド」と言われる医師は存在する。
医師の世界を本当の意味ではわかっていないから失礼かもしれないけれど、それでも外科医に限っては、他の医師とは別の選抜・育成方法をとった方が、さらに「ゴッドハンド」が増える可能性はないだろうか、と思ったりもする。
ゴッドハンド
とても素人考えではあるのだけど、知識と経験が同等だとすれば、より器用な人の方が、「ゴッドハンド」に近づける気がする。
現行制度で、医師になるとすれば、日本の場合は、基本的には、大学の医学部に、まず入学するところから始めなくてはいけないはずだ。
すでに何十年も、そこに入学するためには、高い倍率を潜り抜けるような、高い学力が必要となる。今は、国公立の大学でも学費が昔よりも上がってきたとは言っても、やはり、今でも国公立の方が学費が安い。だけど、どちらにしても、高い学力が必要になるというイメージがある。
私立の医学部に入学しようとすれば、学力があったとしても、それにプラスして、桁違いの学費がかかる。
(このデータ↑によると、最も安い私立の医学部でも、約2000万円かかる)
(それに比べると、国公立の医学部↑は、やはり、格安に感じてしまう)。
「ゴッドハンド」と言われるような医師は、こうした条件を当然の前提でクリアした上で、医師になるために学び、実践し、経験を積み、さらに、手術をする上では、おそらくは、人よりも器用である、という条件すら持ち合わせているのだから、それは、「ゴッドハンド」と言われるのも自然かもしれない、と思う。
器用であること
その上で、やはり、基本的な事情をわかっていないから、勝手な妄想に近いのだけど、手術の上で「器用であること」が重要だとすれば、その選抜・育成方法を変えれば、もしかしたら、本当に「天才外科医」の数を増やすことができるかもしれない、などと想像してしまう。
例えば、最初から、外科医、というよりは、「外科手術専門医」育成コースを、新しくつくることはできないだろうか。
そして、もちろん学力も問われるのだけど、それ以上に、手先の器用さを重視する実技テストも課され、倫理を守らない暴走をしないような人格的なことも、もちろん面接などで注意深く見定めるものの、出来たら、世の中で、最も器用な人間を集められるような場所にする。
その上で、医者としての研鑽を積んでいくのだけど、何より「外科手術」の技術を磨くことを優先するような育成をしていけば、「天才外科手術医」が生まれる可能性が今よりも高くならないだろうか。
「天才外科医」をテーマにするドラマを見ると、とても勝手な想像だけど、そんなことを思ったりもする。
法科大学院
法科大学院を舞台にしたドラマもあった。
もちろん、詳細をいえば、実際とは違うこともあるのだろうけれど、4年制の大学の法学部から、研究者として大学院に進むルートとは違うのは事実だから、いろいろな建前はあるのだろうけど、法科大学院には、「司法試験合格」のための学校、という印象があり、このドラマは、そのイメージ通りになっていた。ただ、そこに「いい法律家」とは何か?といったテーマもからんでくる。
それでも、「司法試験合格」を目指すことが、とにかく目標になる。
そうした、不合格だった人間の様子も、このドラマでも描かれているが、実は、法科大学院の誕生や、その後のあり方も、また別のドラマになりそうな起伏があったのも、改めて知った。
この記事は、2016年のものだけど、すでに、法科大学院の存在自体が問われているようだった。それから、さらに年月が経った上で、この法科大学院を舞台にしたドラマが「女神の教室」だった。だから、ドラマの終盤で、この存在意義についても触れるシーンがあったのだろう。
司法試験
かなり昔から「司法試験合格」というのは、場合によっては「人生逆転」のように見られていた部分がある。
それは、とにかく合格すれば、法律の専門家になり、社会的にも収入的にも「高さ」が保障される時期があったから、だと思う。そこまで、どんな人生であっても、受験までたどり着き、受かってしまったら、本当に違う人生になる、という光景を、直接的には知らなくても、間接的には見てきたような気がする。
私自身は、法学部でもあったのだけど、司法試験を受けようと思う瞬間もないほどの劣等生だったが、それでも、司法試験にまつわる「都市伝説」のような話は聞いたことがある。
以前は、司法試験は、受験資格があれば、何度でも受けられたはずだから、30になっても、40になっても受験を続けている人がいて、ある大学の図書館が、そうした人たちの溜まり場になっているらしい……。
そんな妙に具体的な「都市伝説」だけではなく、合格すれば、法曹界の人間になれるけれど、ある年齢まで受験を続け、合格しなかったら、就職も難しく、その後、行方不明になる。そんな具体性の高い「怖い噂」は、よく聞いた。
ただ、こんなふうに、資格試験を難しくするのは、重要な仕事だから仕方がないとはいえ、本当に、それだけでいいのだろうか、と思うこともある。
(こうした出来事↑は、資格試験を難しくするだけで減らせるとは思えない)。
資格試験のあり方
この「供給過剰」な状態を避ける、というのは、その資格を持った人間の価値を高める、ということにつながるのだと思う。本当は、社会的にも、もっと人数が必要でも、数を絞ることによって、その資格者の価値を高める、という側面がある方法だと思う。
ただ、それは、同時に、その資格を持つ人間の質を担保する、という見方もできるだろうから、安直に、その資格試験の合格率を上げるのも違う、のだとは感じる。
難しさと倫理性
ただ、とにかく合格することが目標になってしまうと、「女神の教室」のドラマの中でも暗示されていたように、そのことと、「いい法律家」と両立するのだろうか、というような疑問も出てくるし、資格試験の難しさよりも、高い倫理観という資質の方が重要ではないか、と一市民としては思ったりもする。
あまりにも資格試験が難しすぎると、その合格自体が目標となりすぎてしまい、例えば、司法試験であれば、合格後も、「いい法律家」になるという目標よりも、「法律家」であり続けることが目標になったりしないだろうか。と邪推かもしれないが、そんなことを、思ったりもする。
どこにもあるであろう「組織の論理」が優先されすぎているから、近年、批判されるようになった、「有罪率99%以上」というシステムの是非について、改めて検討される気配すらない、ということはないのだろうか。
多様性の担保
資格試験の難しさを下げ、同時に倫理性については厳しく問われるようになりながらも、もっと多様な人材が法律家になることで、こうした法曹界のシステムが、よりよく変わっていく可能性はないだろうか。
数が増えることで、「供給過剰」になり、法律家になっても、収入が保障されない(すでに、そうなりつつあるようなのだけど)ようになっても、その中でフェアな競争があることで、優れた法律家が生まれる可能性が高まらないだろうか。
そんなことを夢想するのは、法律のことをわかっていない素人の戯言に過ぎないのだろうか。
ただ、どんな「業界」でも、そこを構成する人間が、どんな人か?が、とても大きい影響があるので、大事な資格ほど、多様性を担保できるようになった方が未来が明るいと思うのだけど、どうだろうか。
そして、その前提として、法曹界は、三権分立のために、最高裁の裁判長が内閣に指名されるようなシステム(判事は内閣が任命)を見直した方がいいのでは、と中学生の頃、それを知ってから、ずっと思っている。
ただ、その可能性は、どんなことよりも低いような気がするから、もし、検討されることになっただけで、「奇跡」のように感じるかもしれない。
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