「エビデンス主義」への、素朴すぎで未熟だけど、今のうちに伝えたい疑念。
「エビデンス」という言葉をよく聞くようになったのは、いつ頃からかは、よく覚えていないのだけど、現在は、はっきりといろいろな場所で聞くようになった。
最初は、医療の世界で使われていたはずだった。それは、患者が、自分自身の治療を選択する時に、根拠のある治療を選びたい、といった文脈の中で、「エビデンス」が使われ始めたと記憶している。
患者となった場合には自分の命に関わる重要なことなのだから、そこで「根拠」を求めるのは当然のことだし、それは、「説明と同意」として「インフォームド・コンセント」が言われ始めた頃と、もしかしたら重なるのかもしれない。
「説明」は命令や指示ではないから、「根拠」を示して、納得してもらうことが重要で、だから、客観的な事実を示さなくてはいけなくて、それは医療の現場では、それまで医師の「指示」に従うだけだった状況から考えたら、「インフォームド・コンセント」が常識になったのは進歩といってもよかった、と思う。
「インフォームド・コンセント」による選択の重さ
それ以来、「エビデンス」を示されて、治療法を患者自身が選択する、という流れは大きくなって、場合によっては「セカンドオピニオン」を他の医師に求めることも常識になった。それは、選択ができなかった時代から比べたら、明らかな進歩だと思う。
それでも、20世紀の最後の方から、約20年、家族(高齢者)の介護に関わって、その中で、もちろん医療にも関わったし、家族が手術をすることもあったが、その時に、「エビデンス」を元に説明をしてくれて、さらに選択をしなくてはいけない場面があると、その選択の多さが負担と感じることもあった。
例えば、介護をしている家族が手術を受ける際には、もちろん患者自身にも聞けることは聞くのだけど、どうしても家族として決断する責任はあった。そういう時に、さらに昔の事を思い出すこともあった。それは、信用できる医師や病院を選んだら、「あとは、お任せします」で、あとの「決断」も含めてやってもらえるので、家族は看病に、本人は病気の治療に専念できる、というメリットがあることを改めて思った。ただ、すでに、説明を受けて、患者側が決断する流れも、止まらないのも理解しているつもりだった。
それでも、「エビデンス」を元にした「インフォームド・コンセント」も、その選択への決断の負担に耐えられないほど、闘病などで弱っている時は、信頼できる医療者に、「お任せする方が楽なこと」もあると思ってはいる。
「エビデンス主義」への疑念
「エビデンス」という言葉がだんだん広く聴かれるようになり、それに伴って、「根拠」とか「証拠」と言った方が分かりやすい場合でも「エビデンス」という表現を選択する人が増えていったように思う。
それは、一面では、まだ存在する「新しいカタカナ言葉」への信仰に基づく、いわゆる「マウンティング」に使われているせいもあるかもしれない。
ただ、そうした「マウンティグ」とは関係なくても、「エビデンスがある」ことだけを重視するようになると、「エビデンス」を示しやすいことだけを取り扱うようになり、もしかしたら、無意識に近い部分で「エビデンスがある」ことだけを見るようになってしまい、気が付かないうちに視野が狭くなり、色々なことが返って見えなくなるのではないか、という素朴すぎる疑問もわくようになった。(これは本当にまだ未熟な考えだとは思いますが)。
そして、「エビデンス主義」といっていいようなものへの疑念が、形になったような出来事が、2020年末にあった。
「GoToキャンペーン」での「エビデンス」
その頃、政策として進めている「GoToキャンペーン」は、感染拡大と関係あるというエビデンスはない、と言い方を、政府関係者が繰り返し主張しているニュースに何度も接することになった。そして、その主張に対して、賛同も反論もあったことも覚えている。
こうした医療関係者の冷静な反論↑もあるのだけど、この出来事で個人的に分かったと思えたのは、「エビデンス」という言葉が一般化してきたこと。そして、あいまいな部分もあったにしても、「エビデンスはない」と言い切ると、ある程度の説得力が宿ってしまうこと。さらに、やはり、どんな出来事でも、エビデンスがあるかないかを証明するのは大変であること、だった。
こうした「エビデンス主義」への、冷静な批判↑は、「エビデンス主義」の盲信への諫めでもあるのだけど、これは、思考や方法が洗練されれば解決しそうな事にも思える。
それとは別でないかもしれないが、もともと「エビデンスがあるなし」を重視することだけでは、届かないようなこともあるのではないか、と「GoToキャンペーン」のことで改めて思った。
「エビデンス」で届かなそうなところ
「エビデンス」のあるなしを証明するのが難しそうなこと。
それは、関係してくる要素が複雑で多すぎること。また、あいまいな要素が多いこと。数値化するのが難しいこと。
例えば人間にとって大事な「毎日の生活を幸せに暮らすこと」に関することは、今までに見つけられなかった「エビデンス」を探すことで、より可能になることもたくさんあると思う。
でも、「毎日の生活の幸せ」を構成するのは、人間そのものに関係してくるから、どこまで分析しても、おそらくは、あいまいなところが圧倒的に多いから、「エビデンス主義」は、人間そのものを分かっていこうとする時は、かえって足枷にならないだろうか。
つまり、エビデンスでは届かないところもあるとも考えないと、あいまいな部分を切り捨てすぎることになり、かえって、分かり方が狭くならないだろうか。そうした、あいまいな部分は、哲学のような人文系の学問に、どれだけ時代が進んでも、頼らざるを得ないのではないだろうか。
これが、未熟で素朴すぎるけれど、今のうちに伝えたい「エビデンス主義」への疑念です。
混乱もしているのですが、「エビデンス」が主義として根付きすぎる前に、こうして書くことで、読んでもらって、もっと考えを進めてくれる方がいらっしゃれば、とても嬉しいです。
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