あの鳴き声は、「いちばんゼミ」だったのかもしれない。
最近の梅雨明けに関する言葉は、微妙に自信が感じられなくなった。
以前は、梅雨明け宣言という表現がぴったりのように、今日から梅雨が明けました、といった言葉が気象庁から発せられて、それを聞いたことで、夏が来た、という気持ちになれたし、不思議なことにその後に多少の雨が降ったとしても夏の雨の印象になったような気がする。
だけど、いつの頃からか、梅雨が明けたと思われます、といった微妙な表現になった。だから、梅雨と夏の境目も、少し微妙な感じになったように思う。
「梅雨明け宣言」の変化
そうした梅雨明け宣言に関する変化は、印象よりも昔のことだった。
だから、もう30年くらいは「梅雨明けしたと見られる」という表現とともに、夏が来ていたのをなんとなく忘れていた。
自然現象
天気予報がない頃は、自分の身の回りのことで季節の変わり目を感じていたのだろう。
今を生きている人間でも、周囲の草花や虫の声など、自然現象の方が実感として季節の移り変わりが身にしみるのは、実はそれほど変わっていないのかもしれない、と思うことはある。
季節の節目を花で感じることはある。
季節の終わりを、虫の声で知ることもある。
梅雨明け宣言がない頃も、夏が来た、と思えていたのは、太陽が強くなったと思える夏の空と、さらにはセミが一斉に鳴く声だったはずだ。
フライングのような、セミの声
今年(2024年)の7月。
それこそ、梅雨が明けたと見られる、といった言葉をテレビか何かで聞いたような気がした日、洗濯物を干していたら、急にセミの声が聞こえてきた。
みーん、みん、みん、みーん。
最初、戸惑いがあったのは、個人的には今年初めて聞いたせいだと気がついた。
少し遠い場所にある、今の季節は葉っぱが生い茂っている桜の並木の方から聞こえてきた。
みーん、みん、みん、みーん。
歌で言えば、急にサビの部分だけを力一杯歌うのがセミの鳴き方だと思っていたから、そんな声を聞いて、いったんの沈黙があっても、さらに、また声が聞こえるのではないかと、予測する気持ちで待っていた。
一匹でも鳴き始めると、その声と競うように他のセミも鳴き始めて、合唱のようになり、あたりはセミの声で満たされ、そのことで少し気温が上がるような感覚になるのも、夏の恒例の現象だった。
ただ、その日は、そのみーん、みん、みん、みーんを何度か繰り返したあと、沈黙になった。
少し待っていたけれど、他の場所からセミの声が聞こえてくることもなく、そして、ずっと耳を澄ませていたわけではないから、不正確かもしれないが、その日は家にいたけれど、そのあともセミの声を聞くことはなかった。
もしかしたら、フライングのセミだったのかもしれないが、こうしたことは記憶になかった。セミのソロライブも珍しかったせいだ。
いちばんゼミ
もしかしたら、しばらくセミの声が聞けないかもと思っていたが、次の日も、セミが鳴いていた。
ただ、それは、前日に聞いたのと同じような方角から、しかも集団ではなく、ほぼ単独のような鳴き声に聞こえたから、同じセミだったのかもしれない。
しかも、周囲を圧倒するようなセミの響き、ではなく、なんとなく控えめな、まだちょっと早かったですか?といった気配さえあるような鳴き声にさえ聞こえた。
さらに、最初にセミの声を聞いてから3日後には、最初に聞こえてきた方角とは違うところからセミの声が聞こえてくる。
さらに4日後になって、明らかに集団の鳴き方になってきた。ただ、まだそれほど空気が変わるほどの音声になっていない。
他の町では、もっと力強い、大勢のいかにもセミの鳴き声を聞いたから、もしかしたら、自分の住んでいる近くだけなのかもしれないが、今年(2024年)は、ある日を境に、気温が上がるほどの一斉のセミの鳴き声ではなく、少しずつ増えていく、という年になっているのかもしれない。
とするならば、梅雨明けをしたと見られるあたりで、初めて聞いたセミの声は、珍しく「いちばんゼミ」といっていい存在だったのかもしれない。
そして、自宅まわりのセミたちは、最初に単独行動で鳴き始めたせいで、まだ完全に息も揃っていないように、バラバラな感じになっている可能性もある。
ただ、まだ夏は始まったばかりで、庭にセミの抜け殻を目にすることも少ないから、単純に成虫になったセミの数がまだ少ないだけかもしれないから、もう少し経つと、いつもの夏のように朝からうるさいと思うほどのセミの合唱が響くような気もする。
そうなったら、この「いちばんゼミ」かも---、などと微妙に思っていた自体を忘れてしまうのかもしれない。
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