「陰謀論」を、信じられなくなった理由
不安が多い時ほど、『あれは実は裏で…』というようなことが、真面目な口調なシリアスな文体などで語られるようになり、そして、ある特定の団体や、人種や、国の名前や、意外な方法などがあがり、どんなことでも、世界は、誰かの意図で動かされている、といった結論になる。
厳密にいえば、間違っているのかもしれないが、私にとっては、それが「陰謀論」であり、「デマ」だと思っている。大小さまざまな出来事の全てに「あれは、実は…」が潜んでいて、必ず、そんなことを語る人がいて、それなりに筋が通っていることもある。いったんは信じてしまったり、感心したことも少なくなかった。
「陰謀論」より、「表の情報」
ただ、いつの頃からか、そのことをあんまり考えなくなったのは、「あれは、実は…」を考え出すとキリがないことと、表に出ている事だけで考えたほうが効率が良くて、実は正確なのではないか、と思うようになったからだった。
それは、たとえば、ノームチョムスキーというアメリカの言語学者のように、公式に発表されているものだけを素材にしても、その分析によって、かなり正確に、そして本質的なことまで辿り着けることを知った。2001年9月11日のアメリカでの同時多発テロのあと、「アメリカに報復する資格はない」という文章を発表したのだが、それを読んだ時から、そう考えるようになった。
また、日本でも、プチ鹿島という芸人が、新聞を読み比べるという、それこそ古いと思われる方法によって、他の誰もが気がつかないような視点を提供したりしてくれているから、「表」の情報だけで、分かることはわかると証明してくれていると思う。
(このことは、以前にも、もう少し詳細に紹介させてもらっています↓)。
さらに、医療現場などでも、同じレントゲン画像であっても、それを誰がみるかによって、病気がみつけられたり、みつけられなかったりと、まったく違う結果になることもあると聞いたことがあるから、目の前の事実への判断力の差が、「実はあれは」という裏の情報を知ることより、決定的に重要なのだと、思うようにもなった。
そういえば、何で読んだか忘れてしまったのだけど、優秀なスパイは、どこかに潜入して危険な方法をとる前に、普通に手に入る新聞や雑誌やテレビやラジオの情報で、かなりのことまで報告できる、という話があって、それが事実かどうか分からないにしても、それに説得力があるのも、また本当だと思った。
さらに、今はSNSもあるから、もしかしたら、スパイ活動は、さらに変化していて、「ミッションインポッシブル」みたいな極端に危険な活動と、日常的な活動の両極端に分かれているのかもしれない。
映画のなかの「うっかりミス」
さらに、「陰謀論」を信じられないのは、人間が、「不特定多数の人間をコントロール」できるほどの能力を持つのは不可能ではないか、と思っているせいもある。
今も「映画 うっかりミス」と検索すれば、数多く見ることができる「映画の意図しない失敗」を見た時に、個人的には、「陰謀論」を、より信じられなくなった。
たとえば、テレビなどで見たのは、こんなシーンだった。
ある映画の一場面で、レストランが映っている。何人もの人が思い思いに食事を楽しんでいる。そこに画面の外から人があらわれ、急に銃撃戦が始まるのだけど、同じ場面をスローで再生すると、画面のすみっこにいる男の子が、人があらわれる前に耳をふさいでしまっている。
似たような、ちょっと見ると気がつかないのだけど、よく見直すと、画面のすみで、そうした次を予測したような動きや、時代的にはありえない物体、たとえば、まだプラスチックがないはずなのに、ペットボトルが映り込んでいたりすることがある。もちろん、当たり前だけど、ノーミスの映画のほうが多いはずだとは思う。
それらは、とてもアナログなミスで、CGも豊富に使用される現代になると、なくなるかと思っていたら、最近の映画であっても、ある場面でマフラーのようなものをしていた登場人物が、こちらを振り返った時には、マフラーがなくなっていたりすることもあるらしい。
映画は、膨大な人が関わっていて、特にハリウッドであれば、さらに莫大な予算も動いていることが多いと思うし、何重にもチェックがされているはずなのに、それでもミスは起こる。映画画面という限られた「世界」であっても、生きている人間が複数からんでいると、そこに何らかの思いもかけない出来事が起こってしまい、それが、なぜか人間の注意力をくぐり抜けてしまうこともある。
画面の中にいる人たちは、すべて、指示通りに動いてくれるように指示されていて、それが叶えられない時は、何度でもやり直しをさせられるはずなのに、それでもミスが素通りすることはある。
言い方がくどくなって申し訳ないのだけど、人間を思い通りに動かすのは、とても難しいということを、こうした映画のミスで、改めて思わされた。あのスクリーンで映る時は、大きいもので8メートル×20メートルくらいだから、これだけを書くと大きいけれど、それでも、「世界」に比べたら、とても小さい。
「陰謀論」というのは、特定の団体、特定の国、特定の人種が、「世界を裏から、思い通りにコントロールしている」という考え方で、表現がもっと複雑になったとしても、それが、ベースになっていると思う。
だけど、映画は、長くても数時間しかないのに、完全にコントロールすることは難しい。それなのに、何十億人も生きている地球上の人間を、かなりの程度、コントロールすることなんて、無理だと思う。
それは、もちろん個人的な感覚に過ぎないけど、どれだけ優秀な人間が試みたとしても、やっぱり不可能ではないか。あれだけ限定された画面で、限定された時間しかない映画も、とても優秀な人間が製作しているのに、そうしたミスが起こるのだから、ちょっと考えれば、「世界をコントロール」するなんて、無理だと思う。
日本国内でも一億を超える人がいて、その膨大な人を、コントロールするのは、ましてやコントロールし続けるのは、不可能だと考えている。
「陰謀論」を信じる人は、おそらく、人間の能力をかなり高く見積もっているのだと考えられる。私自身が、人間の能力は、そんなに高くないと思っているのは、歴史に詳しい方なら、もっとご存知の通り、人間の愚かさがあちこちで噴出しているせいもある。
今でも、それは続いている。もっと人類が、優秀だったら、未知の感染症に対しても、少なくとも、こんなに不安だけがあふれる状況になっていないと思う。「陰謀論」のように、多くの人間をコントロールできるようなことが可能だったら、こんなに混乱していないのではないだろうか。
「陰謀論」を信じる人
さらに想像すれば、「陰謀論」を信じる人は、人間の能力を高く見積もっているのと同時に、自分の能力も高いと思っている可能性が高いように思う。事実として、能力が高いこともあるかもしれないが、「陰謀論」を真面目に語る人の気配には、共通するものがあると感じている。
誰かの意図通りに世界が動かされていると知ったら、もっと恐くなるはずなのに、「陰謀論」を語る人の気配は、どこか楽しそうに見える。それは、大げさな表現を使えば、自分は、「世界を動かす側」のはずだから、今、そうでないとしても、機会さえあれば、「世界」を動かすメンバー側にいるはずだから、といった密かな確信があるせいではないだろうか。
もしくは、「世界の仕組み」を知っているから、という自信があれば、何があっても「世界」は自分の視界の中では安定して見えるはずだから、何が起こっても、自分はわかっている、というような自信があるせいで、楽しそうに、微妙な優越感があるように見えてしまうのかもしれない。
ただ、こうした見方も、「陰謀論」を信じる人から見たら、愚かな人間のひがみに感じてしまうのは、間違いないと思う。それに、人間は、私自身もそうだけど、自分を特別に思いたい気持ちはあるし、そうしたナルシシズムがまったくなければ、たぶん生きていくのは難しいから、「自分だけが知っている情報」という響きへの魅力は、減らないのかもしれない。
「陰謀論」を信じるのは「安心したい」気持ちから?
もう少し考えると、もしかしたら、「陰謀論」を信じたい、もしくは信じやすい人は、やっぱり安心したいのかもしれない。
「世界」が、どれだけおかしな方向へ進んだり、とんでもない出来事があったしても、それは「裏で誰かの意図があって、こうなっている」と思ったほうが、不安が減る可能性がある。安定している時であれば、コントロールされていることは不快かもしれないが、混乱期は、その混乱に理由があった方が、安心できるのではないだろうか。そう思うと、「陰謀論」を信じるのは、ある意味では楽だし、出来事の全体が見えやすくなる可能性すらある。
ただ、「陰謀論」や、「デマ」は一時的な安心に貢献するかもしれないが、やっぱり「副作用」はあると思う。
「陰謀論」は、ストーリーを分かりやすくするためにも、どうしても「敵」が必要になるし、その方が伝達力と浸透力が強くなる。
たとえば、コロナ禍の、こんな時に、「このウイルスは、あの国が製造したんだ」などと思ったほうが、一瞬、敵意みたいなもので、不安を忘れられるかもしれず、安心のために「陰謀論」を使っていることも忘れがちになる。2020年に入ってから、特に、この何ヶ月かで、規模の大小はあるけれど、様々な「陰謀論」がとびかって、それによって、いろいろな右往左往があった。それは、2022年でも続いている。
どれか個別の「陰謀論」が嘘だと分かっても、敵意だけは残ったり、育ったりしてしまうことも少なくない。敵意は、ときおり正義感と結びついたような気になったりもすることで、より、気持ちは盛り上がる。だけど、ある時期に信じていた「陰謀論」が間違っていたと分かった時に、ダイエットのリバウンドのように、おそらくは、不安は、以前よりも大きくなる可能性すらある。そうなったら、また、すぐに分かって安心できる「陰謀論」を探すことになるはずだ。
そうなると、「陰謀論」がないと困る状況になってしまい、いつも敵意と正義感で、不安は覆い隠される。これは、極端な見方かもしれないが、「陰謀論」には、こうした副作用はあると思う。そして、違う材料が投入され続けるが、同じ思考パターンしかできなくなる可能性まである。
「デマ」を信じたい気持ちは、もっと自然かもしれない
「陰謀論」には、敵意が透けて見えそうだけど、「デマ」は、善意で広がることも多い。コロナ禍の中でも、ウイルスは熱に弱いから二十数度のお湯で死滅するから、飲んでください、といった情報が、医療関係者から来たと聞いたことがあったのは、2020年の2月くらいのことだった。
ちょっと考えたら、それならば30数度の体温を持つ人間の体に侵入できるわけがなく、すぐに「デマ」だと分かりやすいものだけど、本当かどうかが「わかりにくいデマ」もあるし、「デマ」と分かっていても、「念のため」買う人が多いといわれ、トイレットペーパーやティッシュが店頭から姿を消したこともあった。
コロナ禍の時間の中で、不幸なことに「表」の公式発表自体が、信じにくくなっている。ウイルスに感染しているかどうか、相談や診断の基準の目安が急に変わったり、そして、その変わったことへの説明すら十分にされないのであれば、不信感が高まって当然だと思うし、私自身も不信感は強い。
そこに、分かりやすく優しい安心できる「情報」が来れば、信じたくて当たり前で、それが「デマ」であっても、信じる人にとっては「デマ」ではない。不安の中にいれば、安心したいのは当然で、そういう「情報」を信じて、安心できたら、本人にとっては問題がないのかもしれない。その信じたい気持ちは、こういう状況だったら自然だし、否定できるわけもない。私自身が、「デマ」から本当に自由かどうかも、自信はない。
「陰謀論」を信じるよりも、安心できる「デマ」を信じるほうが、より自然かもしれない。
「陰謀論」や「デマ」の弊害
それならば、「陰謀論」は敵意を強化しそうだから、危険かもしれないが、「デマ」は善意だし、健康や命に危険がなければ、安心のために信じてもいいのではないか、といった気持ちにもなりそうになる。だけど、「デマ」を信じることで、混乱を誘発することもあるから、どうすれば「デマ」を信じなくてすむようになるのか、といった議論も、もっと専門性が高い人がしてきたはずだから、私のような人間が、そこに何かを付け足すことはできない。
それでも、「陰謀論」や「デマ」には、「分かりやすさ」という弊害はあると思う。
「世界」は理不尽だと、生きている時間が長くなると、よけいに、思うようになる。
いい人が報われるとは限らないし、悪いことをしても幸せかもしれない。今もそうだけど、これまででは信じられないことが起こったりもする。
私などよりも、いろいろな経験が豊富な人は、もっとそのことを深く理解していると思う。
今も、十分に「理不尽」な状況になっているが、これから先も、おそらく「理不尽」で「分からない」できごとは起こるし、もしかしたら増え続けるのかもしれない。
その時に「陰謀論」や「デマ」のような「わかりやすさ」に慣れていると、「理不尽」に耐えられなくなる可能性が高い。というよりも、未知の状況への適応が、より難しくなってしまうと思う。
繰り返しになるけど、常に新しい「陰謀論」や「デマ」で自分を安心させ続けるしか方法がなくなるかもしれない。それは、とても自由とはいえない、と思う。
不安なままにいるのは辛い。なるべく早く答えを知りたくなるのも自然だと思う。だけど、「陰謀論」や「デマ」に慣れすぎると、思考は止まりやすくなる。安心と引き換えに、過去に取り残されるかもしれない。
これから先に、考えていくべきこと。
では、どうすればいいのだろうか。
それこそ、私に、正しい答えを出せる力があるわけはないけれど、今の時点で、自分の無知や能力の低さという限界を感じつつも、考えを進めてみる。(自分のためにも)。
今、正解を分かっている人は、どこにもいないし、完全な解決策もない。
これが、たぶん本当のことだろうし、まず、そう思い定めてみる。どこか、あきらめにも近い気持ちだけど、そう思ったほうが、逆に不安は減らないだろうか。少なくとも、どこか知らないところで、誰かだけが本当のことを知っているかもしれない、と思うよりは、健全な気がする。たとえ、誰かが得をしているとしても、それは、自分とは関係がないと思ったほうが、無駄な焦りも減るような気がする。
わからないことは、わからない。
未知の状況の中で、生きていくには、その前提を引き受けることが必要ではないだろうか。偉そうな言い方になって、申し訳ないのだけど、そこから始めないと、たぶん自由は遠いままだと思う。
たとえば、そんなことを言っていたとしても、知り合いから、友人から、「特別な情報」はやってくることはあるはずで、それが、その場で「デマ」と分からなかったり、誰かを傷つけるような「特別な情報」でなければ、否定することもできない。伝えてくれたのは、善意だから、その気持ちに対しては、御礼を伝えるのも当然だと思う。
でも、だからといって、その「特別な情報」を拡散するのは、待ったほうがいい。
その「特別な情報」をまずは、受け止めて考えてみる。
この「特別な情報」も、「正解」ではなくて、ひとつの「仮説」ととらえて、「検証」をしてみる。
その結果、何か得るものもあるかもしれないし、ないかもしれない。
他からのいろいろな「情報」もまずは受け止めて、だけど「正解」ではなくて「仮説」としてとらえて、「検証」を続ける。
その結果、その「仮説」は捨てることになるかもしれないし、「修正」するかもしれないし、そのうちに、また新しい「仮説」を知ることになるかもしれない。
その途中で、誰か特定の人の言動や思考を信じて、考えの基準にすることもあるかもしれない。それは、安心のために、必要なことでもあるし、そういう基準がまったくなくて、自力だけで考え続けられることは、ほぼ不可能だと思う。だけど、その人が全部「正解」ということはありえない。それを忘れないようにしたほうが、たぶん自由に近づける。その誰かがまともだったら、自分の全部が「正解」などと言うはずもない。信じること。疑うこと。考えること。それを続けること。
ずっと完全な「正解」を得ることはできないかもしれないが、ずっと、「今よりは、少しは確からしいこと」を目指して、考え続ける。全部を「仮説」として、「検証」し続ける。
疲れたら、休む。無理はしない。
だけど、必要になれば、また「仮説」を「検証」して、考え続ける。
たぶん、とても平凡で、つまらない、もしかしたら、かなり頭が悪いことを言っていると思う。
そして、こうやって書きながら、自分もできるだろうか、と不安になるし、やれたとしても、大変そうなのは間違いない。
ダイエットだとすれば、カロリーを減らして、運動する、という「超オーソドックスなこと」を言っているだけのような気もする。
だけど、人類は、肉体的には強くないのに、生き残って来れたのは、考える力があったからなのは、たぶん間違いない。
そして、不安を消すには、自分で考えて、自分で明らかにしていく以外に、実は、根本的な方法はない、と思う。
つまらなくて、つらそうでも、「仮説」を「検証」し続けて、簡単に「安心」しない毎日の向こうに、自由が待っていると、思いたい。
いつも以上に未熟で混乱した文章を、最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
説得力にも自信はありませんが、もし、よろしかったら、どなたかが考えをつないでくれたり、反論してもらったりしたりすると、ありがたいです。自分で書いた以上、なるべく「仮説」を「検証」し続けることは続けたいと思っています。(シンドそうですが)。
「陰謀論」や「デマ」というのは、考えると、かなり根深くて、難しいことだというのは、分かった気もします。考えたら、「デマ」の語源は、デマゴーグなどといわれていて、古代ギリシャのことですから、どれだけ長い時間、存在したかと思うと、私が分かるわけもありませんが、でも、考えたこと自体はよかったです。最初、思っていたことと違って、予想もしない地道な、一応の「結論」にたどりつきました。
(※2022年5月に少し加筆しました)
(参考資料)
「映画館のスクリーンはだいたい何インチくらいですか?」
https://q.hatena.ne.jp/1324542113
(この記事と、関連があるように思います↓興味があれば、読んでいただけると、ありがたいです)。
(有料マガジンも始めました↓。①は無料ですので、ご興味を持っていただけたら、②を購入していただけたら、これからの書く力になります。ご検討、よろしくお願いいたします)。
「コロナ禍日記 ー 身のまわりの気持ち」① 2020年3月 (無料です)
「コロナ禍日記 ー 身のまわりの気持ち」② 2020年4月 (有料マガジンです)
(他にもnote を書いています↓。よかったら、クリックして読んでもらえると、うれしいです)。
「コロナ禍の中で、どうやって生きていけばいいのか?を改めて考える」。①「コロナは、ただの風邪」という主張。 (途中から有料noteです)。
あいまいでも、記憶や思い出や感想を、公開する意味を、書きながら考える
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