スポーツの記憶⑦マイク・タイソンの暗い目
その姿は、ウソみたいに、強そうに見えた。
電器店
引っ越して初めての一人暮らしを始めて、テレビもなかった。
その頃、ボクシングのタイトルマッチがあって、とんでもなく強いチャンピオンがいるとは知っていた。
その試合を見たかった。
2階の木造アパートの1階に住んでいて、近くに商店街があるのは知っていた。その中に電器店があって、そこに近づいたら、大きい画面のテレビが道路側に向いているのは見えた。
試合当日は、そこで見られるかもと思っていた。
試合開始まではいろいろとセレモニーがあるはずで、そこから見始めたら、たぶん、店の人に声をかけられ、試合自体が見ることができなくなる。だから、だいたい、このくらいの時間がたってから、店の前に行こうと思っていた。
時間が近づいてから、外へ出て、少し遠いところから、小さく見えるテレビ画面を見て、まだセレモニーが続いていることを確認し、あまりあやしくないように、少し歩いて、様子を見ながら、そして、いよいよ試合が始まりそうな時に、近くに寄る。
店の内部を見て、そんなにこっちに注意を向けていないのを確認をして、テレビを見る。
昔は街頭テレビで、人がたくさん見ているような画像は見たことがあるけれど、今日は、私一人だけだった。
大きな体
画面に急に現れた背中は、とんでもなく大きく、筋肉のかたまりだった。
汗か何かで光っていた。
プロの格闘技で、こんなに強そうな体は見たことがなかった。
マイク・タイソンはヘビー級のボクサーとしては、小柄なことは知識としては知っていた。
だけど、テレビ画面からあふれるような体は、とんでもない強さを放っていた。
試合が始まる。
マイク・タイソンは、リングで、相手に向かうスピードが速かった。
相手の身長もリーチも長い。
繰り出されるパンチも、当然、早い。
だけど、体を左右にふり、それをかわすマイク・タイソンのスピードは、もっと早く、相手のパンチをかいくぐるように、さらに前進し、パンチを繰り出す。
そのパンチは、テレビ画面で見ていても、早く、重く、怖そうだった。
何度かパンチが当たると、相手は倒れた。そのまま殴られ続けたら、死んでしまうのではないかと思えるほどのパンチに見えた。
1ラウンドで、相手はノックアウトされた。
こんなに分かりやすく強いチャンピオンが存在することはすごいと思った。
試合は、すぐに終わった。そのおかげで、電器店の前で、試合の全てを見ることができた。
この日、1988年の試合の相手は、マイケル・スピンクスだった。
暗い目
その2年後、マイク・タイソンが、日本で試合をやることになったと知った。
その頃、フリーライターをしていた私は、スポーツ関係の原稿も書いていたが、ボクシングは書いたこともなく、依頼もなかった。それでも、マイク・タイソンを見たくて、もちろん試合を急に取材などすることは無理だったので、その練習だけでも見てみたかった。
知り合いの編集者にお願いをして、その練習が行われる場所に入れることになった。
その日、少し遠い場所から報道陣は見ることになっていたが、まだマイク・タイソンはいなくて、それでもさまざまな関係者がいて、談笑したり、動いたり、そこには比較的リラックスした空気が流れているのは分かった。
そこに突然、マイク・タイソンが現れた。
音がなくなり、笑顔も消え、声も止まった。
マイク・タイソンの目は、とても暗く、深く、すべてを吸い込むように思えた。それは、多少の距離があっても、はっきりと分かる異質な気配だった。
その数日後の、日本での試合で、予想に反してマイク・タイソンは負けた。
この書籍によると、疑惑のレフィリングがあったらしいが、それよりも、テレビで見ていたマイク・タイソンは、2年前に、電器店の店頭で見たボクサーとは、とても同一人物とは思えないような動きだった。
史上最強のボクサーだったのに、もう最強ではなくなっていたように思えた。
ピーク
その後、マイク・タイソンは、スキャンダラスな出来事で、注目されることが多くなったように思う。
何年か経ったある時、マイク・タイソンの試合を海外を含めて何試合も取材していた先輩記者と、ふと、1988年にテレビで見た時の話になった。
あの時がピークだったと思う。
その人は、自然に応えていたし、どうやら、それが一般的な見解でもあることを後で知るようになる。
それから、もっと長い年月がたった。
2022年には、若者にしつこくからまれ、殴ってしまうという「事件」で注目をされることになってしまった。
ヘビー級のボクサーとして、素人目から見ても、あれだけ強いことが明確だったマイク・タイソンの時代を、おそらく、このからんでいた若者は知らないのだと思った。
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