うつわの与えてくれるもの
今年は、鎌倉に行った時(リンクあり)に、急に湯呑みが欲しくなり、買った。
値段は3000円で、自分の生活レベルから言ったら十分にぜいたく品でもあるのだけど、それがこたつの上にのっていて、毎日、お茶をいれて、飲んでいるようなイメージがぼんやりと浮かんだ。
それは、尾形アツシという人が焼いたうつわで、以前、同じ人がつくった湯呑みを使っていて、それは長年にわたって毎日、お茶を飲んでいたら、古くなり、落としたせいもあったのだけど、ひびがいってしまって、いつ割れるか分からないような状態になり、それで、次の器を使うようになった。
それは、それで気に入っていたのだけど、今回、鎌倉で、その湯呑みを見たら、そういう誰かが作ったということが分かるような、おそらくは丁寧に作られたものがあるだけで、うつわが与えてくる力みたいなものを急に思い出した。
そんなタイミングをとらえるように、お店の人が、同じ作品の別のものを出してきてくれた。
一つ一つ違うのがわかって、その出してきてくれた湯飲みの中に、あ、これがほしい、と思ったものがあって、それは、一緒に行った妻とも意見が一致したので、買うことにした。
そして、お店の人にお礼を伝えたのは、10年くらい前のことだった。
うつわの話
仕事を辞めて、介護に専念して10年が過ぎようとしていたのが2010年の頃だった。
このまま何もしなければ、本当に社会から落ちてしまうと思っていて、それでも、そうやって介護を続けられるだけ、ある意味で恵まれていたのだけど、何しろ、先が真っ暗だった。
何かをしないと、と思って、その時もぜいたくだとは思ったのだけど、アートは見続けて、そこで、村上隆というアーティストが、おそらくはアートの啓蒙のために、「ゲイサイ大学」というイベントを行った時期があった。
現代思想やファッションや茶道など、自分とは縁がないと思える世界の話も、実際に、その世界の一流と思える人が近い距離で言葉を発しているのは、新鮮で、おもしろく、その時間だけは、自分の先のなさのことは忘れる瞬間でもあった。
その「ゲイサイ大学」の中で、「うつわ」の講座があった。
「うつわ」は、本当に興味がなかった。昔、取材をして書く仕事をしていた時に、滋賀県の信楽に行く機会があり、その時に撮影を担当してもらったカメラマンの人と一緒に、取材の帰りに、器の店に寄った。その時に骨董までいかなくても、江戸時代や明治の頃の食器を買って、将来、仕事を引退したら、こういう器を使った喫茶店をやりたい、という話を同行したかめらまんの人がしてくれて、それはすごいことだとも思ったが、うつわへの興味や熱に関しては、ほとんど共感できなかった。
だけど、「ゲイサイ大学」の流れの中で、自分が興味がないものほど、話を聞いたほうがいいと思っていたから、うつわの講座も出ようと思った。
うつわの力
祥見知生(しょうけんともお)氏という講師は、男性か女性かも知らなかった。
登壇したのは、女性で、そして、話を始めて、話を続けて、終始伝えられたのは、うつわの与えてくれる力について、だと思った。
毎日使うものが、うつわ。それは、思った以上に、人間に影響を与える。だから、うつわを選ぶことは考えた方がいい。大量生産のものでもいいのだけど、毎日使って、普通に洗えて、それでも誰かが作ったものとわかるような、うつわを使うことで、何かが違ってくる。
私は聞いていて、そんな風に思って、講座が終わる頃には、何かうつわを買って帰ろうと強めに思っていた。その場所は、普段はギャラリーで、畳の部屋があり、そこに並べられたうつわを見て、さわって、これがいいかも、と思った、ご飯茶碗を買うことにした。他のちゃわんの方がすべすべしていていいかな、などと思ったが、未来の事を考えて、やっぱり最初に思ったうつわにした。
小野哲平という人が作ったうつわ。ちょっとごつごつしている、なんだかエネルギーを感じる色と形。生々しさを残していて、ご飯茶碗1つで、5250円。こんな(高い)値段のうつわを買ったのは生まれて初めてだった。
現代陶芸、といわれるジャンルらしいことも知ったが、もっと高い飾るようなものではなく、あくまで日常で使えるもの。本当は、2つ買うものらしいが、自分の経済状態では、一つだけでも分不相応だった。
ただ、祥見知生氏の話を聞いていて、うつわに対して、本当にまっすぐで本気なのは伝わってきたから、それで、買う気になったのだと思う。
うつわのこと
それから、熱心に集めたわけでもないのだけど、時々、何年かに一つくらいのペースで買うようになった。尾形アツシのもの。それから、村田森の初心な感じのうつわ。さらに、妻と一緒にどこかに行った時には、小野哲平の大きめのうつわを買って、今もラーメンを食べる時に使っている。
村上隆が、どこかで、同じ作家でも祥見さんのところのうつわは違う、やっぱり、作家にうまく圧をかけているのだと思う、という言い方をしていて、それは、一度講座を聞いただけだったのだけど、その時の感じを思い出して、なんとなく納得がいく発言だった。言葉を変えれば、うつわへの本気度がすごいのだろうと、勝手に思っていた。
買ったいくつかのうつわは、割れたり、壊れそうになったりしていたが、ここ何年かは、そういう「現代陶芸」といわれるうつわを買っていなかった。もっと普通のうつわで、毎日を過ごしていた。
それなのに、鎌倉で、久しぶりにそうしたうつわが並んでいるのを見たら、なにか、いろいろなことを急に思い出すような気持ちになった。
介護が終わって、2年がたとうとしていて、でも、まだ何かもやもやしている感じがあっても、こういううつわがそばにあることで、さらには、このコロナ禍という非常時だから、よけいに必要なのかもしれない、などといったことが、大げさかもしれないけれど、うわっとイメージとして浮かんできて、欲しくなって、今も貧乏だから、分不相応だけど、買った。
その時に、10年前からのことも、店員の人に短く話をして、お礼を言った。たぶん、あの講義を聞かなければ、こういううつわを買って、日常的に使おうとする生活はなかったと、改めて思ったので。
買ってよかったもの
そして、新しく鎌倉で買った湯飲みは、購入した日に、洗って、使った。
お茶がきれいに見えて、口触りも気持ちよく、おいしく感じた。
以前、同じ作家のものを使っていたせいもあって、すぐに、なじんだ。
毎日、お茶も入れているし、インスタントコーヒーも飲んでいるし、それで、すでに色も微妙に変わってきているかもしれないが、まだ、新鮮な気持ちがある。
うつわがあたえてくれるもの、は確かに今もあって、だけど、それは祥見知生氏の「洗脳」がまだ続いているのではないか、といった疑いをもつこともあるが、一ヶ月くらいしか経っていないせいもあるけれど、湯のみを使うたびに、まだ微妙なうれしさがある。
小さいこたつの上には、買ってまもない尾形アツシの湯呑みと、妻に似合うと思って買った村田森の湯呑みが並んでいる。
自分が住んでいる環境は、掃除が苦手なせいもあって、いろいろな乱れはあるものの、こうしたうつわがあることで、ぎりぎり救われているような気もするのは、自分を甘やかしているだけかもしれないが、でも、やっぱり尾形アツシの湯呑みは、買ってよかった、と思う。
(他にもいろいろと書いています↓。読んでいただけると、うれしいです)。