テレビについて(65)「ベッキーがかかっているように見える〝現代の呪い〟」---『あちこちオードリー』。
ベッキーをテレビで見た。
いろいろなことがあって、犯罪を犯したわけでもないのに、一時期、表舞台から姿を消したような状態になっていて、復帰に思ったよりも時間がかった。
それも、現代だから、そうした状況になったとも思えるのだけど、今はごく普通にテレビに出ているようになった。
ベッキーの変化
この「テレビについて」シリーズでは、オードリーの番組が登場する回数が多く、今回も「あちこちオードリー」で申し訳ない気もするけれど、この放送回のときは、ベッキーとハリセンボンが出演していた。
こちらが情報に弱いだけかもしれないけれど、気がついたら、この2組が同じ事務所に所属していることを知った。しかもハリセンボンは、2024年になってから、吉本という大きな事務所から、比較的、新しく若い経営者の事務所に移ったような印象だった。
ただ、そうした変化に対する言葉は、ハリセンボンからはあまりなくて、視聴者の印象としては、かなり安定感のある実力のあるコンビということで変わりがなく感じた。
それよりも、ベッキーの方が気になったのは、やはりいろいろなことがあって、そこから復帰したあとも、こうしたバラエティなどでの発言を聞いていると、例えば、ハリセンボンの気配と比べても、なんとなくまだ迷いがあるように思えたせいだ。
今回は、最近、ドラマの中で殺し屋を演じたことにも触れていた。私も、その姿を見たが、拳銃を構えて、どこかすさんで投げやりな表情をしながらも、ためらいなく発砲する姿は、とても印象的で、今のベッキーにも合っているようだし、殺し屋役としても新鮮に見えた。
復帰後には、他のドラマでも、いわゆる「悪い女」を演じていて、それもとてもフィットしていたし、これからは、いろいろな面を見せていくような覚悟もあったように感じ、それは、以前のベッキーが「黒い色は身につけない」と言っていて、それは申し訳ないのだけど、どこか「ポジティブの呪い」にとらわれているように、テレビ画面を通して感じてしまっていたので、その呪いは解けたのかのしれないと思った。
現代の呪い
ただ、視聴者の勝手な思いに過ぎないのだけど、番組が進んでいくと、ベッキーの発言に不安を呼び起こされるような気持ちになっていた。
前回も感じたのだけど、ベッキーは、おそらく相変わらず、とても勉強熱心で、さらには元々の学習能力の高さもあって、学ぶ力も高く、そして、現在も、同業者の知り合いに対して、アドバイスをもらっているという話をしていた。
その姿は、自分のことは自分では正確に見られない。外側から、どう見えるか。現代のテレビの世界で生きていくためには、その現在の価値観にフィットするように自分をつくっていかなくてはいけない。だから、信頼できる、見る目があって、自分よりも現在に適合しているように見える人たちに真摯にアドバイスを求め、しかも、それを真剣に身につけて形にしているように感じた。
それは、おそらくは評価されやすい姿勢だろうけれど、同時に、ベッキーだけではなく、現代社会を生きている人間であれば、自分も含めて、逃れられない呪いのようにも思えた。
自分が何者か。
そこを考えるのは大事なことだけど、実際には、自分がどうしたい、どうありたいを考えるよりも前に、例えば仕事を探すときなどは、その仕事をするためには、どういう人であるべきなのだろうか、を考え、仕事ができるようになるのは、自分がどうしたいのか?ではなくて、何を求められているのかを察し、それにふさわしい能力を身につけ磨く。
それが現代で、そのことで疲弊しているのも、現在なのだと思うし、だから、ベッキーの方法は、21世紀の社会では「正しい」ことだとも思えた。
だけどそれを突き止めると、もしかしたら、また「売れっ子」(いまでも十分そうだと思うけれど)になっていくかもしれないけれど、今度は、年齢を重ねていることもあって、「外からよく見られる自分」になりすぎることによって、再び、何らかのつまずきが訪れてしまうのではないか。そんなことを勝手に思って、微妙に不安にもなったのは、それはベッキーだけではなく、誰も完全に免れることは難しい「現代の呪い」のせいだと思う。
そして、その呪いは、優秀で真面目で勉強熱心な人ほど、強くとらわれやすいような気がする。
内発的動機づけ
あまり単純に区分けするのも間違っているのかもしれないけれど、ベッキーのように「現代の呪い」にかかっているのは、外敵報酬という言葉でイメージされるようなプラスなことだけではなく、ただ適応しなくちゃ、というような恐怖に近い気持ちなのかもしれない。
でも、どちらにしても、自分のことでありながら、その視点は外部にあるのだと思う。
そして、それは、とても危ういものではないだろうか、と思ってしまうのは、それと逆とも言える内発的動機づけは、例えば、こうした行為を可能にするような気がするからだ。
こうした利他的な行為も、思わず、という内発的な動機によってこそ、可能になるのだと思う。
ただ、現代では内発的動機づけという、繊細で、複雑で、何より時間がかかることを大事にするような余裕がないから、実際に内発的なことが重要だとわかっていても、なかなかそれに忠実でいられないはずだ。
博多大吉のアドバイス
『あちこちオードリー』に出演していたベッキーは、これからもバラエティにも出られる芸能人であり続けるためにどうしたらいいのか?を今でも、関わった人に尋ねていることは先ほども書いた。
様々な名前が上がって、それは私でも知っているような現在の「売れっ子」(こういう表現も古くなってきたのかもしれないが)ばかりだったが、個人的に最も気になったのは、「大吉先生」とも呼ばれ、様々な分析力にも優れているように見える博多大吉の言葉だった。
----そんなに焦らなくていいんじゃないだろうか。仕事を続けていて、また長く時間が経ったら、自然に変わっていくのではないか。
記憶で書いているので、詳細は違っているとは思うのだけど、この言葉のポイントは焦らないことで、それはつまりは、早く、今の芸能界の最適解を見つけて、それも外部からの評価で自分を作り上げるのではなく、もっと時間をかけることによって、内発的なものが自然と育ってくるのを待った方がいい、といったことを言っているように思えた。
これも、自分の解釈に引きつけすぎて、ベッキーにも博多大吉にも、オードリーにも失礼なのかもしれないけれど、でも順調とは言えない過程を経ながらも、今は仕事も多く、実力も評価されている博多大吉だから言えることではないかと思った。
それは、もしかしたら一般社会でも、ベッキーのように「現代の呪い」にかかっている人たちにも有効な言葉のようにも感じた。
ベッキー♪♯
ベッキーが音楽活動も始めたのは、CMの出演本数で年間首位の頃だったと思う。
確かに普段のベッキーとは違うのだけど、このCDの内容紹介の文章にも「前向き」という単語が入っているから、パブリックイメージと大きく変えないようにしていたように思うし、その楽曲も歌唱も、テレビなどで見ただけだが、その印象通りの響き方をしていたように感じた。
それは、音楽もきちんと質の高いものをつくるというプロフェッショナルな姿勢のようにも思えたのだけど、せっかく仕事として音楽を制作し発表できる環境にあるのだから、もっと内発的な作品を期待していたのは、熱心なファンでもない人間が思うのは失礼かもしれないけれど、勝手に残念な思いがしていた。
それよりも、個人的にはベッキーの内発性を感じたのは、『モニタリング』の中で演じていた木部さんだった。
2020年代を超えて、これからさらに長く、しかも、もし本人も幸せを感じながら芸能活動をするのであれば、やはり内発性を大事にしていくしかなく、もし、それで成果も出ることになれば、ベッキーと同様に外部の視線で「役に立つ自分」でいようとする「現代の呪い」にかかった人たち(自分も無縁ではないけれど)にも、希望が持てるモデルケースになるのではないだろうか。
その際に、勝手に参考になりそうだと思ったのは、ベッキーの音楽活動と、木部さんだった。
これからのベッキーにしてほしいこと。
これから先、音楽活動を再開する。それも「木部さん」として、楽曲を制作して、歌う。
それは、色々あった以前のベッキーともつながり、その上で、内発的なベッキーを誕生させるきっかけになりそうだけど、少なくとも、そうした音楽活動を始めたら、とても興味が持てるし、すごい作品が生まれるかもしれない、という期待もある。
とても勝手なことばかりを書いて大きなお世話で、失礼だったとは思いますが、ベッキーという存在自体が、どこか現代の有能な人を象徴している部分があるとずっと感じていたので、気になって書くことにしました。
疑問点、ご意見などございましたらお聞かせ願えれば幸いです。
よろしくお願いします。
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