「かわいいを見つける」を教わった話。
ほぼ何も考えていなくて、機能と値段だけを見て、下着のシャツを2つ買った。それで、そういえば、と思い出して、多少ゆるくなっても、はきつづけて、捨てるタイミングを逃してしまう下着のパンツも2つ買った。
それで、家に持ち帰って、包装をあけて、パッケージも破って、中身だけを棚にしまう、といった経過の中で、パッケージは、あとは捨てることになるのだけど、その見た目が微妙にひっかかった。妻に聞いたのは、時々、それが取っておきたいものになるからで、見せたら「それ、かわいい」と言われた。
かわいさを考えた頃
介護を長年している頃は、私だけが外出していて、妻はあまり出かけられなかったので、妻の服などを買う機会が多くなったことがある。
その時は、まずは、どんなショップかを選ぶ。そこで、いろいろ迷う。それが決まっても、次は、そのショップの中で、どれがいいのかを、選ぶことになる。実際に、買うようになると、基本的には妻は、かわいいものが好きなので、そして、どういう可愛さが好きなのかを、考えるようになった。
試行錯誤を繰り返し、そのうちに、妻が「かわいい」と思う服などは、少し分かるようになった気がする。それでも、今回のパッケージのかわいさは、ちょっとわかるようで、わからなかったので、教えてもらうことにした。
シャツのパッケージの可愛さを教えてもらう
最初は、下着のシャツのパッケージについて、を妻に聞いた。
このシャツのパッケージは、シャツがかけられている状態だと、なんともなくて、その中が、ギザギザしているように思っていたのに、シャツをとると、うねうねしていた。なみなみしていた。
まるっぽいもの、というか、外から見たら、そんな気配もなくて、あけたら、内部がおしゃれっぽいというか、レースみたいというか、直線的だったら、かわいくないので、これは意外性もあって、かわいいと思った。
それに、色が可愛い。
なみなみの白に、淡い水色が合っている。
全体の形のバランスにも、フィット感がある。
そのフィット感は大事だと思う。
(この場合のフィット感は、似合っている、というようなことらしい)。
パンツのパッケージの可愛さを教えてもらう
下着のパンツは紙の袋に入っていて、外から見えるように、一部がビニールになっている。その中の見える感じというか、ビニールになっている窓みたいなところの大きさと、全体とのバランスがいい。
それに、ひっかけるものが、普通はプラスチックなのに、これはボール紙で、その素材感も可愛い。
この袋にシールを貼って、絵を描いたら、すごくカワイイ袋になると思うので、お菓子なんかも入れたら、いいのではないか、と思う。
やっぱり、まるっこい感じとか、色の可愛さとか、あとは、全体のバランスいうか、形とか色とかが、フィットして、そのフィットのしかたで、かわいくなると思う……。
妻の話は、感覚的な表現が多く、聞いていて、わかるところと、分からないところがあるので、他のジャンルの話も聞いた。
植物の可愛さについて教えてもらう
庭に、もしゃもしゃって生えてきたグリーンがあって、それは、なんになるのだろうな、花が咲くか、実がなるか、雑草じゃないだろう、とずっと思ってて、そしたら、ご近所さんのところに、コキア(もっこりしたもの)が盛んな時期で、もしかしたら、それは、コキアかもしれない、といった感じ。
それは、可愛さへの期待が高まる気持ちかもしれない。
もしゃもしゃ、っていう形態がかわいいし、その下が小さいものでいっぱいになっているから、その全体がかわいくなっている。まだ、コキアかどうかよくわからなかったけど、コキアじゃないとしても、植物としてどういう風になっていくのか、楽しみ。
それは、今は、可愛さの気配があるからだと思う。
ガッカリ花
やはり、分かるようで、分からない点があるので、逆に可愛くないもの、についても、妻に聞いてみた。
ウラジロチチコグサ、という植物があって、妻は、その花が咲くことに対して、個人的に「ガッカリ花」という名前をつけているらしい。
まず、すごく見事なはっぱが生えてくる。
あ、ちゃんとした花が咲きそうな、準備体勢。裏が白い。すごく黄緑がきれいで、しっかりした形をしているし。丸みを帯びているし、そこに可愛い花が咲きそうになっている。
わりと雑草は、葉っぱによって、こういう花が咲くと分かっていたので、かわいい花が咲くのと、はっぱの形は似ている時があって、そういうパターンがある。そのパターンからはずれていても、かわいい時はあるけど、それは、ただ、はずれているだけではダメで、葉っぱの形がかわいいことが多い。
葉っぱが可愛い。それなのに、申し訳ないけど、花がしょぼい。
茶色いし、目立たなくて、花と思えない感じ。
サンジバナみたいな花が咲くような葉っぱなのに。(ハゼラン、ともいうそうです)。
だから、「ガッカリ花」と呼んでいる。
かわいいパターンに、はまってほしい気持ちがあるんだと思う。ウラジロチチコグサには、考えたら、勝手なことを言って、申し訳ないのだけど……。
かわいいについて
組み合わせとバランスによって、同じような素材であっても、可愛いかどうかが左右される。だけど、それは、何ミリとか、何パーセントとか、黄金比みたいな数値化をするには、感覚的なことなので、やや難しいことみたいだった。
ただ、フィット感や、祝福されるような感じとか、それは、中身と外側とのバランスとか、ふさわしいように見えるかどうか、といったことにも、かわいさも関係してくる(ようだ。難しいけど)。
たとえば、ある女性の髪型は可愛くて、本人が可愛いのに、合っていない、つまりはフィットしていないことによって、「1+1=2」という可愛さの加算ではなく、「可愛い+可愛い=可愛くない」ということもありえるようで、そうなると、「見立て」といった茶道の千利休の世界に近づいてしまうのではないか、と思った(詳しい方から見たら、違うとは思います。すみません)。
可愛いに関しては、人によって、流派のように違うこともあるし、それでも、不思議と、かわいいは一致することがある。でも、今の自分には、そこへの参加権がないような気がするので、可愛さについては、また、妻に教えてもらうことにします。
(なお、見出し写真が、あまり可愛くない、と思われる場合は、まだ私自身が、かわいいを分かっていない、ということだと思います。申し訳ないのですが、ご容赦くだされば、幸いです)。
かっこいいとの共通点
ただ、その中身と外側との一致感(フィット感)が、可愛さにつながる、といった話を聞くと、以前、縁があって、かっこいいに関しての論文を読んだ時の印象と重なってくる。
『「人間科學研究」 「恰好」から「かっこいい」へ—適合性 suitability の感性化 春木有亮』↓。
この論文は、500年以上にわたる歴史を辿りつつ、かっこいいとは何か、を美学というアカデミックな視点から論じている。それは、中身と外側の一致への視点から始まり、途中からそれが解離し、最近になって、またその一致が重視されるという流れも分かりやすく、重要な視点だと思う。こうした見方も含めると、また可愛さについても、考えを深められるかもしれない、と思ったりもした。(難しいけれど)。
(他にもいろいろと書いています↓。クリックして読んでいただけると、うれしいです)。
「コロナ禍日記 ー 身のまわりの気持ち」③ 2020年5月 (有料マガジンです)。